すべてのカネミ油症被害者救済へ(192)8月10日

 ~8月9日、長崎平和宣言~

昨日は長崎に原爆投下されてから81年目でした。
「長崎平和宣言」が始まったのは、1948年(昭和23年)からで、
1950年を除いて、毎年読み上げられてきました。
今回は鈴木史朗長崎市長が読み、「人間と核兵器は共存できない」
「核抑止論は成立しない」と述べていた。
そして6歳の時に被爆した本村チヨ子さんが、自らの被爆体験の
記憶をゆっくりと語っていました。被爆後倒壊した中庭に倒れた
チヨ子さんを、ご自分の身体で覆い、守ってくれた祖母は、翌年
春に亡くなったという。

広島に続いて、高市総理は”言葉遊び”に終始していた。「非核三原則」
を堅持し、核拡散条約に取り組むことはあり得ないようだ。

長崎市原爆被爆対策部には、広島と長崎で二度被爆した“両市被爆”者
の名前が記録されていて、胎内被爆の2名を含む、9名と聞いている。
数年前には13名でしたから、次第に減っているのが現実なのでしょう。

一方、広島市役所には、”両市被爆”者の記録はなく、そもそも遺されて
いない。8月6日に広島、9日に長崎という時系列から考えて、当然とも
言えるのだが、現実には広島→長崎→広島、長崎→広島で居住された
方もいたのだが、おそらく”想像力”が働かなかったのだろうか。

カネミ油症の場合、国(厚生労働省)が被害者として認めない人が
どの位いるのか?親から子や孫にダイオキシン類(カネミライスオイル)
が「へその緒」を通じて移行していることが明らかなので、増え続けて
いるのではないかと考えられている。

国が記録、調査しようとしないのであれば、当プロジェクトが統計的な
見地から、根拠を基に明らかにしなくてはいけないと考えており、
いま着手し始めたところです。
10月開催の「カネミ油症 五島国際フォーラム2026」には、指針を
示したいと考えています。

カネミ油症被害者救済プロジェクト  稲塚秀孝

すべてのカネミ油症被害者救済へ(191)8月9日

~8月9日・長崎、「二重被爆」から「カネミ油症」へ~

私がテレビ番組製作からドキュメンタリー映画に軸足を
移したきっかけは、”広島と長崎で2度被爆した人”の存在
で、今から20年前に製作した「二重被爆」(2006)でした。
私は初めて被爆をテーマとしし取り組むことになり、取材を
通して、いろいろ分かったことがありました。

テレビ番組は、放送局に企画を通せば、番組制作契約を交わし、
製作費の対価を得られますから、基本的に”赤字”を背負うこと
はありません。しかし、映画製作は費用を自前で調達しなく
てはならず、映画完成後に劇場公開して初めて、製作費の一部
が回収できるのです。そんなことも分からず、当時文化庁の
”芸術振興基金助成制度”に応募し、通過したことで、何とか
製作に踏み切ることができたのです。

被爆者の支援は、厚生省(当時)の管轄で、川崎厚生大臣に
インタビューの申し込みをするために、総務課へ取材申請を
送りました。
しかし2週間、3週間が待っても返事が来ないので、担当者に
問合せをしました。
その時、担当者から、思いがけない答えが返ってきたのです。
「取材のテーマが、二重被爆とありましたが、広島でも、長崎
でも、被爆者の支援はお一人1回ですから、二度被爆したからと
いって、支援が2倍になるわけがありませんよ。大体、文化庁は
国の機関なのに、なぜ助成金を出すと決めたんでしょうね。
大臣は忙しいので、この件でインタビューはできません」と、
ケンもホロロでしたが、驚いたのはそこではありません。

”厚生官僚はそんな風に思考回路ができているんだ、と。
私は被爆者への支援を2倍にと、一言も言っていないのに・・。

そして20年が経過し、2年前から厚生労働省 健康・生活局の
担当者と、カネミ油症被害者救済へ、と向き合っています。
7月5日に提出した「要請書」(10回目)の回答がまだ届きません。
お盆明けまでに届かないとしたら、国会議員と相談し、
議員と共に回答をお聞きする機会を作っていただくことを
考えています。

改めて「要請書」(10回目)を皆さんにご覧いただきたいと
思います。

カネミ油症被害者救済プロジェクト  稲塚秀孝

すべてのカネミ油症被害者救済へ(190)8月8日

 ~”自立と自律”ということ~

先日の”為替介入”が米国の戦略のもとで実施されていた
こと、その実態が明らかにされている。
そしてベッセン財務長官の”冷徹な談話”も伝えられた。
長年続いた”アベノミクス”なる”幻想”の終焉に違いない。

米国による”原爆投下”から81年経過した今、日本は
軍備、核戦略、経済、文化・・あらゆる分野で、米国に
支配されている”現実”を、改めて思い知らされたのかも
しれない。

私が1973年から参加した映像製作会社の運営を司る代表は
3名で、いずれも東京放送(TBS)闘争を経た”ツワモノ”
だった。
「放送局の”下請け”に甘んじず、放送に携わる者として
”自立と自律”で生きよう」と宣言していた。
だからその組織に参加するものは、
”社員ではなく、同等の権利を持つメンバーである”
と告げられていた。
当初私はよく理解できていなかったが、それから半世紀経った
今こそ、その意味が身に染みていると思うようになった。

8月6日、9日そして8月15日のこの時期にこそ、日本と日本人は
”自立と自律”に生きることを、肝に銘じなくてはいけないと
思う。
と言うと、すぐに誤解する人がいるのかもしれないが、
日本が自前の軍事力を持たなくては、ということではない。
”真逆”の考えである。

「カネミ油症 五島国際フォーラム2026」(10月10日長崎県
五島市にて開催)を企画し、実施しようと準備しているのも、
”自立と自律”の理念を具現化しようとする”プロセス”なのだと
思います。

カネミ油症被害者救済プロジェクト  稲塚秀孝

すべてのカネミ油症被害者救済へ(189)8月7日


 ~人類と核兵器は共存できません~

昨日8月6日は広島に原爆が投下されてから81回目の日
でした。広島の平和公園では、国際連合事務局長の
コメントの代読を始め、さまざまな慰霊の”言葉”があり
ました。その中で、昨年広島県知事となった横田美香
さんは、目の前に座る高市総理を見据えながら、
「人類と核兵器は共存できません」と述べました。
その前に”核抑止”の考えの誤りを指摘していましたので、
”納得”の発言です。前 湯崎知事も毅然としていましたが、
広島は市長よりも県知事の言葉が重いと感じます。

私が取材した二重被爆者、山口彊さんは、
「人間の世界に核はいらない」と、2009年3月16日、
93歳の誕生日の日に語っていました。

「非核三原則」 の理念が揺らぎ始めており、高市総理と
面会した、広島の被爆者団体の方々が”釘をさしていた”
のが印象的でした。

明後日、8月9日は長崎に原爆投下された日から81年目
ですが、どのような発言を聞くことができるのか?
楽しみです。
特に長崎では、毎年被爆者の方が”渾身の思い”を語り掛け
ますので、興味深いです。

一方、カネミ油症の国会対応については、「臨時国会」が
いつから始まるのか?に注目しています。
”上映会と集会”の準備を整えるのは、8月末までと決めて、
粛々と進めたいと考えています。

カネミ油症被害者救済プロジェクト  稲塚秀孝

すべてのカネミ油症被害者救済へ(188)8月6日

 ~未認定被害者の実数は、一体いくらなのか~

今日8月6日は、81年前に広島に原爆投下された日である。
長年テレビ番組製作を続けてきた私が初めて、ドキュメンタリー
映画に取り組んだのは、2006年「二重被爆」でした。
広島と長崎で二度被爆した人を探し、インタビューが出来たのは、
わずか7人。あれから20年が経過した今も、取材を続けています。

被爆者は4つのカテゴリーに分かれています。
①直接被爆 ②入市被爆 ③介護、看護者 ④胎児被爆
広島の被爆翌日(8月7日)から、毎日広島から”避難列車”が一編成
(7両が基本)ずつ、西に向かい、長崎本線の終着駅の長崎駅に
到着しました。入市被爆者は、被爆から2週間以内に、両市の爆心
から2㌔の地域を通過した人なので、二重被爆に該当する人数の
概数はおおよそ”掴む”ことができます。
しかしながら、被爆後の人々の中には、自分が二度被爆したことを
認識しないまま亡くなった人、二度被爆したこと、そもそも被爆者で
あることを認めない、認めたくないまま亡くなった方々がいました。

正確な”二重被爆者”の数値を明らかにするのは難しいと思います。

そして今、カネミ油症被害者で、被害者として認められていない、
未認定の方々がどの位いらっしゃるのでしょうか?
国(厚生労働省)が一切調査し、把握しようとしていないことに
当プロジェクトは取り組み始めています。

「カネミ油症 五島国際フォーラム2026」(10月10日)には、仮の
数字とその根拠を明確にしようと考えています。
水俣病とカネミ油症の被害者に寄り添ってきた藤野 糺(ただし)
医師は、「およそ10万人に及ぶだろう。そして次々と次世代に
広がっているから、増え続けているに違いない」と話してくれ
ました。
より”実態”に近いデータを明らかにしたいと考えています。

カネミ油症被害者救済プロジェクト  稲塚秀孝

すべてのカネミ油症被害者救済へ(187)8月5日

 ~”人生はプレゼンの連続”の巻

今日は涼しい風も吹く一日だった。
「カネミ油症被害者救済」に向けて、何をしてゆくべき
なのか、一枚の”レディメ”を持って、国会議員のもとを
訪ねた。

今から53年前、1973年春に未経験のまま、映像製作会社に
参加し、テレビ番組をどう作るのかを学ぶことになり、
さまざまな先輩の指導を受けるなか、結局自分の道は自分
で切り開かないといけないと感じた。

その時から、”人生はプレゼンの連続”だと思い知らされた。
どんな番組を作りたいのか?そのためにどれだけの知識と
方法論を持っているのか?結果を導き出すのは簡単では
なかった。
企画書を書いても、書いても、プレゼンの場で未消化のまま
苦杯を味わう時間が経過して行くのを眺めていた気がする。

秋の臨時国会が始まる時期に、2度目の上映会と集会を開く
ことを決め、テーマを明確に定め、実現に向けて動き出すこと
になった。

高市政権の喫緊の課題は、”消費税減税”の国会通過を目指すこと。
それが出来なければ、政権維持も危うい状況となっている、と
連日のメディア報道で明らかである。
ということは、早ければ10月初めにも国会召集となる可能性が
高い。準備を急がなくてはいけないし、10月10日「カネミ油症
五島国際フォーラム2026」の準備のために、8月後半には、
長崎県五島へ行くことになる。大きく“舵”を切って、動き出して
ゆこうと考えている。
残りの夏は、秋に”成果”をもたらすために、重要な日々となり
そうである。

カネミ油症被害者救済プロジェクト  稲塚秀

すべてのカネミ油症被害者救済へ(186)8月4日

 ~カネミ油症を”世界へ伝える”を考える~

今から16年前のこと。
2010年1月4日に、山口彊(やまぐち つとむ)さんが93歳で
亡くなった。私が2005年から取材し、ガンの闘病を経て、
亡くなる2週間前には、ジェームズ・キャメロン監督が長崎へ
お見舞いにかけつけてくれた。山口さんは「I Have done My
Duty」(私はやり切った)と最後に、英語で伝えました。
山口さんは、広島(昭和20年8月6日)、長崎(8月9日)と二度
被爆した”二重被爆者”だったのです。

そして1月後半、英国のBBC放送が、山口さんの被爆体験を
”揶揄”し、”笑いの種”にしたとの報道が流れました。曰く、
「二度も被爆したのに、90歳過ぎまで生きたのは、矛盾だ」と
いうことを”笑い”に変える内容でした。

山口さんのご遺族と田上富久長崎市長は、連名でBBCに抗議を
しましたが、返事は返ってこず、むろん”謝罪”もありません。
そこで私は同年(2010年)夏にロンドン大学で「二重被爆~
語り部・山口彊の遺言」
(英語版)の上映会を行うため、渡英。
上映に際しては、ロンドン大学と英国に住む”日本人会”が協力
してくれたのは、ありがたかったです。
2回の上映会に、学生と市民合わせて500名が見て、さまざまな
感想を寄せてくれたのを思い出します。

「一度ならず、二度も被爆した人がいたとは、知らなかった」
「山口さんが強く生き抜いてこられたことに感動した」との感想、
一方「二重被爆は悲惨な出来事だったが、英国に住む僕たちには
”ホロコーストの悲惨な出来事”がより重いと感じている」という
意見を聴くことができたのは、心に沁みる言葉でした。

すべてのカネミ油症被害者救済を叶えるためには、さまざまな
”戦略と戦術”、方法を駆使しなくてならないと感じています。
それは、「二重被爆」を国内外に伝えようと、2006年夏に山口彊
さんと共に、国際連合に乗り込んだことも重要なファクターで
あったと思うからです。

カネミ油症被害者救済に向けて、国際連合やWHO(世界保健機構)
等に、ダイオキシン類による身体被害(重篤な症状)を伝えること
と被害者の”人権”も合わせてアピールすることが必須なのだと改めて
考えて、アクションを進め、つないでゆきたいと思うのです。

カネミ油症被害者救済プロジェクト  稲塚秀孝

すべてのカネミ油症被害者救済へ(185)8月3日

 ~「憲法を武器として」上映会で~

昨日東京・文京区民センターで、「憲法を武器として~
恵庭事件 知られざる50年目真実」
上映会を行った。
猛暑日に集まった来場者は3名。
初めてご覧になる男性1名と何度目かの女性2名。
いずれも70代の方々である。
因みに文京上映会は通算79回目となった。
映画が完成した2017年9月から、ほぼ毎月上映会を開いて
きた、その積み重ねがあるのだ。

上映後に小一時間”アフタートーク”を行いました。

「憲法を武器として」は、1963年9月から1967年3月まで、
札幌地裁で行われた”恵庭裁判”40回の公判と、判決までの
法廷劇が中心となっている。当時被告の野崎兄弟を支援した
「北海道平和委員会」に保存されていた膨大な”公判記録”が
原資料として構成されたのだ。
①公判の様子をテープレコーダーで収録した
 (裁判官の許可を得て実行された)
②被告も検事や弁護士と同等に、挙手をして自由に発言していた
映画完成当初から、②について、”違和感”を覚える観客は多く、
被告も公判に積極的に参加しているのは”演出”ですか?という
質問が多かった。

今回も同じ質問が飛んだ。
「私も最近裁判を傍聴しているけど、当時は本当にこんな感じ
だったのですか?」と。

私は”公判記録”に書かれた内容を忠実に再現したことと、
当時の裁判所の様子を、そのつど丁寧に伝えることにしている。

実は「母と子の絆~カネミ油症の真実」を製作した時にも、
1987年最高裁で”和解”(実態は被害者=原告が取り下げた)
により、あっけなく終わるまでの裁判記録を弁護団に求めた
のだが、何と、何と、すでに裁判記録は”廃棄”してしまった
と聞かされた。
私はその時「カネミ油症事件」最大の”闇”だと感じた。

それでも ある新聞社の支局に残されていた福岡地裁、高裁
の記録(ごく一部)を読むことができたが、全容に迫ること
はできず、断念するしかなかった。

”公文書”の取扱いがずさんなのは、官民に共通した、この国の
”悪弊”に違いない。つまり、残したくない”記録”があり、残す
ことを阻んできた”歴史”があるのだ。
1945年8月15日の敗戦以降、全国各地で、米軍占領前に、
膨大な資料を焼却していた事実は、その”証左”である。

「憲法を武器として」を観た男性はアンケート用紙に、
「恵庭事件のことが分かった気がする」と書いてくれた。

製作者として嬉しく思うのは当然である。
次回「憲法を武器として」第80回文京上映会は、9月19日(土)
14時から、文京区民センター3C会議室である。

カネミ油症被害者救済プロジェクト   稲塚秀孝

すべてのカネミ油症被害者救済へ(184)8月2日

 ~ドロドロとした”空気”がそこにある 筑豊編~

私が初めて筑豊の地に入ったのは、1970年の初夏のこと
でした。大学2年、20歳の頃です。
当時姉が住む小倉(地方銀行の社宅)にお世話になりながら、
国鉄で小倉から黒崎へ、そこから筑豊電鉄で中間市内に
向かいました。片道約1時間の行程を、一週間通いました。
誰か知り合いがいたわけではありません。

「サークル村」という文化創造運動があり、日米安保改定
(1960年)を境に、激しい「大正炭坑闘争」が繰り広げられた
”残滓”が残る町の雰囲気を感じ取りたいと思いました。
私は秘かに、哲学科の卒論を「九州左翼運動」で書こうという
”野望”を抱いていたのですが、結局それを果たすことはできず
じまいでした。ただ、「サークル村」の主要メンバーで、数々の
作品を遺した作家 上野英信さんと連絡が取れ、見も知らぬ
一学生の”願い“に応えて下さったのは、望外の喜びでした。
それは「サークル村を読むことはできますか?」という問いに、
上野さんは、「いま西日本新聞の記者に預けてあるから、そちら
から送らせるので、読んでみてください」と、丁寧に声をかけて
いただいたのです。

その当時の中間市議会には、現役バリバリの”任侠”の精神を持つ
議員がいると聞き、人と人の繋がりの”濃さ”が生きているのだと
感じたのを覚えています。
カネミ油症事件が明らかになった1968年以降、謝罪と補償を求めて、
小倉の港近くの「カネミ倉庫」に、多くの被害者が押しかけました。
「カネミ倉庫」前に長くテントを張って、闘いを続けた方々もいました。

今も「カネミ倉庫」は60年前と同じ場所で貸倉庫業と”ライスオイル”の
製造を行っています。さすがに「カネミライスオイル」では販売できず、
1968年5月に設立された「福岡製油」と看板を変えていますが・・。

1968年から2026年、複雑にもつれた糸が絡み合った「カネミ油症事件」
の歴史をどのように解明し、すべての被害者救済を実現してゆくのか、
やるべきことは数多く残されていると感じています。

カネミ油症被害者救済プロジェクト  稲塚秀孝

すべてのカネミ油症被害者救済へ(183)8月1日

 ~ドロドロとした”空気”がそこにある 博多編~

1970年前後、私が入った大学は”学生会館”がロックアウトされて
いて、ほぼ授業は行われなかった。コロシアムのように、四方を
教室に囲まれた中庭では、各党派(セクト)の集会がせめぎあって
いた記憶がある。
そして、東映やくざ映画ばかり見ていて、気づいたことがあった。
「網走番外地」(北海道)では、殺人はライフルや拳銃が使われ、
北部九州(遠賀川)が舞台で繰り広げられる“抗争”では、主に
”ドス”が使われるのには意味があると感じていました。
それは、人が人を殺める時の、怨念と愛情の深さを表現するフォルム、
ではないかと、そんな”夢想”を抱きながら、新宿のオールナイトの
劇場から出て、ムッとするような朝の熱気を感じたものでした。

連日ニュースに登場する福岡県議会議長・副議長の金銭の授受と、
議会向け質問を県職員が別会派に”廻していた”事実は、明らかに
1970年代を彷彿とする世界が残っていることの”証左”かもしれない。

その福岡県議会棟を訪ねたのは、6月18日(木)で、一人だけの
会派を担う女性議員に面談するためでした。
エレベーターを降りた3階には各会派の控室が並んでいて、
その廊下に大勢の県職員(らしき)が並び、長老議員
(おそらく自民党会派)に大仰に挨拶し、あたかも”媚を売る女給”
(1970年代風の表現)の所作のような異様な光景でした。

昨年の県議会で、議員が福岡県内のカネミ油症被害者(認定)の情報と
県の対応について、質問された経緯を聞くことができた。
質問のキッカケは「カネミ油症被害者福岡地区の会」に知人がいた
ことで、情報を得ることができたという。
ただ”一人会派”なので、質問時間は少なく、毎回”3ネタ”程度しか
取り上げられないと聞いたので、秋以降の議会に向けて、
当プロジェクトから情報提供させていただきたいと、お話しました。

国会も地方議会も同じで、”数と権力の壁”をどのようにして突破
できるかが“カギ”なのだと思うので、国会ー県議会―市議会の
言わば”縦の流れ”と党派を横断する”横の流れ”をどのように
作ってゆくかの方策を、いま練りはじめているところです。

カネミ油症被害者救済プロジェクト  稲塚秀孝