すべてのカネミ油症被害者救済へ(219)9月7日

 ~ 「幻のかくめい」 Ⅲ ~

次回作「幻のかくめい」(80分)の仕上げの行程で、
語りと音楽、音響の部分が出来上がり、この後は、映像
の修正を残しているところです。
細部のチェックが必要ですので、数日はかかり切りになり
ます。
一方各地の劇場への連絡と上映会の設定、メディアへの
告知作業(いわゆる配給)がこれから本格化します。
今日9月7日をもって、ポスター・チラシを公開いたします。

これまで通り、チラシ(B5版両面)のおもて面をB2版として、
ポスターといたします。(おもて面うら面

高市内閣の次の陣容が、徐々に情報として露出しています。
さまざまな観測記事がありましたが、相変わらずの”自民党人事”
に収まりそうですね。足元がおぼつかない高市総理にとって、
頼るべきベースは麻生・茂木陣営ということでしょうか?

民主党政権の最後と今回の”中道改革連合”の大失態が、同じ野田
議員(総理と党代表)というのが、歴史に刻まれるのでしょうか?
むしろさらに、野党は”もめにもめた”方が、国会の動きが流動的と
なって、思いがけない展開となるのではないかと思います。

そろそろカネミ油症被害者救済へ向けて、議員会館内での上映会
と集会の日程を相談してゆこうと思います。
今のところ、臨時国会開会は、10月初めの見込み。
10月10日「カネミ油症 五島国際フォーラム2026」(長崎県五島市)
を新たなスタートの”起爆剤”と考えて、
10月19日~、10月26日~のいずれかで実施できたら、と思います。
集会では、提案型のマニフェストをお伝えできるように、大勢の
一般の方々にご参加いただけるよう、告知に注力いたします。

カネミ油症被害者救済プロジェクト  稲塚秀孝

すべてのカネミ油症被害者救済へ(217)9月5日

 ~「幻のかくめい」について~

私の手元に、表に「サークル村」と書かれたノートがあり、
B5版、30ページ、「Complete」と打ち込まれて、計6冊が
ガムテープでとじ込まれています。
表には、2017.12.25と書かれており、最初1冊目を書き始め
たのは、およそ9年間です。
2017年秋には「憲法を武器として 恵庭事件・知られざる
50年目の真実」
の全国上映が始まったころです。

「サークル村」とは、1958年9月から九州北部・中間市で発行
された「サークル誌」で、九州7県と山口県にまたがる各地の
サークルに呼びかけ、”全九州サークル交流のための会員誌”と
して毎月刊行されました。
中心人物は、詩人 谷川雁 作家上野英信 作家森崎和江の
3人が、中間市本町の借家に隣どうしで住み、”九州サークル
研究会”が発行元になっていました。
当時中間市は、炭質に恵まれた大正炭鉱が町の経済の中心を
担っていて、およそ2000人の抗夫を抱えていたのです。

カネミ油症事件に取り組んだ「母と子の絆~カネミ油症の
真実」の取材開始が2000年秋でしたから、その3年前から
まず、調査を始め、さまざまな本を読み始めるところから
一歩、一歩でした。
今回「幻のかくめい 筑豊からのメッセージ」というタイトル
で、84分ほどのドキュメンタリー作品に仕上がろうとして
います。今日から数回に渡り、一本の映画ができるまでの
物語を皆さんに知っていただければと思います。

なぜ今、この映画を完成させるのか?
ご覧いただく方々に何を伝え、届けたいのか?
何かの”ヒント”になって下さると嬉しいです。

9月13日の沖縄県知事選がどうなるのか?注目です。
そして秋の臨時国会開催は、10月初旬の見込みとの報道に
集約されてきました。
「カネミ油症 五島国際フォーラム2026」(10月10日長崎県
五島市)開催を軸に、カネミ油症被害者救済に向けて、
どんな展開ができるのか?喫緊の問題になってきました。

カネミ油症被害者救済プロジェクト 稲塚秀孝

すべてのカネミ油症被害者救済へ(210)8月29日

 ~北九州はカネミ油症の”原点”である Ⅱ~

北九州市小倉は、カネミ油症の原因企業である「カネミ
倉庫」があり、カネミ油症の”原点の街”と言っていい。
昨日も”旦過”(北九州モノレール)そばにある検診会場
から、平和通り、小倉駅と歩いた。駅のそばには、
昭和の匂いをプンプンとさせた街並みが魅力的である。

次回のカネミ油症検診は9月9日。
私は行けないが、早急に「北九州被害者の会」を立ち上げたい
と考えています。目指すのは「すべてのカネミ油症被害者」
の集まる会であること。それが出来上がれば、被害者救済へ
向けて、新たな”起爆剤”となることは間違いない。

カネミ油症被害者救済プロジェクト   稲塚秀孝

すべてのカネミ油症被害者救済へ(206)8月25日

  ~五島が”原点”である Ⅱ~

奈留島に続き、福江に移動。
地方都市のかた住まいが見受けられる。
物資(食料品)やガソリンを運ぶ船がひっきりなしに
長崎市から来ているらしい。

今回の国際フォーラムのポイントは、世界に向けた配信
なので、昨日は地元の技術会社の方と、会場における
ユーチューブ配信に関する下見を行いました、
有線ケーブルを引いて、準備は完了しました。

そして題字を書いてくれた中学2年生の橋本くんにお礼の
品を持参しました。選んだのは”万年筆”。おそらく初めて
万年筆を使うので、楽しみです。
私も中学生の時に母から万年筆を買ってもらい、大人への
第一歩を築いたと思いました。

今日はこれから「カネミ油症五島市の会」の会長さんに
お会い致します。

カネミ油症被害者救済プロジェクト  稲塚秀孝

すべてのカネミ油症被害者救済へ(204)8月22日

 ~国は何をするべきか?を問う!~

戦後80年を過ぎて、日本人は国際機関でも重要な役割を担っています。
特に女性の方々の活躍が素晴らしいです。
数日前からの報道で、ICC(国際刑事裁判所)赤根智子所長に対し、
米国の”ごろつき”トランプ大統領が、“制裁処置”に出た、というのですが、
もちろん実害はない”脅し”だと思います。
しかし 高市総理は”残念”と言うだけで、残念至極です。

この国は国民を守らない、かねがねそう理解しています、
”不条理さ”が充満しているのです。
ロシアのウクライナ侵攻、イスラエルのガザ自治区への非道な
攻撃などでそれぞれトップに逮捕状が出ていることを考えれば、
米国のイラン攻撃により、トランプに逮捕状が出ても決して
おかしいことではない。
こうした”犯罪行為”はしっかり糺すべきだと思います。

さて10年前から製作準備に入り、6年前から取材を始めた
「サークル村と大正行動隊」(初期の仮タイトル)がようやく”尺”になりました。
84分33秒が本編の時間です。予告編は1分33秒。
9月に入り、語りや音楽を入れ、整音を行い、最終的に映像を
完成させるのは、ほぼ1か月後になりそうです。
タイトルは「幻のかくめい 筑豊からのメッセージ」としました。

「二重被爆」2006年)から20年が経過して、15作目になりました。
やりたいことが、作りたいことが、取り上げたいテーマが、その
都度あってのことですが・・・。

ドキュメンタリーは告発だ、と思っているので、一向に被害者救済
が進まない(非認定被害者が潜在的な方を含めて数十万人想定)ことに
”苛立ち”を覚えます。
前作「母と子の絆~カネミ油症の真実」と異なる“切り口”が見つかれば、
再び取り組みたいと思います。
そのためには、勝手ながら、皆さんからのご支援、ご協力をお願い
したく思います。

カネミ油症被害者救済プロジェクト  稲塚秀孝

俳優 仲代達矢さん追悼(下)

  プロは死ぬまでプロ
 
 無名塾は1975年に設立されましたので、今年50年目を迎えました。仲代達矢さんと妻 恭子(劇作家・演出家)が、若い俳優を育てる目的で始め、現在までに250名越える塾員を世に送り出してきました。
 1995年に作られた仲代劇堂(稽古場)の一角に「無名塾修業覚書」が張り出されています。生前恭子さんが書いた筆文字です。

一、 無名塾は高度の目標をかかげたプロフェッショナルな俳優達の生涯修業を目的とした修練の場で
  ある事を第一義おする
二、 無名塾の生涯修業は、三年を養成期、それ以後を修業期とする
と位置づけています。
 仲代さんは日頃塾員に「生涯修業」つまり、「プロは死ぬまでプロ」という教えを授けてきたのです。また「無名塾」の名には、俳優を続けていても、いつでも無名になって、戻って来られる“場所”という意味が込められていたのです。

 2022年「役者として生きる~無名塾第31期生の4人」が完成し、全国上映されました。無名塾で3年間修業を重ねる4人の若者たちはコロナ禍と重なり、仲代さん数少ない指導を受けられませんでしたし、修業を覆えた「卒塾式」が開かれませんでした。

 しかし4人揃っての舞台「左の腕」(2021)では、新たな塾員として挨拶ができました。それから4年、誰一人欠けることなく、この夏の「肝っ玉おっ母と子供たち」の舞台に立ち、役者として仲代さんの背中を追う”決意“を固めています。

 「影武者」(1980年)では、苫東地区と厚真町がロケ地となり、「春との旅」(2010年)は、苫小牧市内で撮影が行われました。今年6月「苫東映画祭」の際、仲代さんは「肝っ玉おっ母と子供たち」能登公演を終えたばかりで、来苫は実現しませんでしたが、後日メッセージをいただきました。
「『春との旅』を全国から集まった皆さんに観ていただけて良かった。私も『苫東映画祭』に参加したかった」と。それを聞いて私は、来年6月半ばに「苫東映画祭2026」を開催し、ゲストに仲代さんを迎え、「人間の條件」や「切腹」を上映しようと準備をし始めました。10月下旬、亡くなる10日前には、「来年の『苫東映画祭』を楽しみにしている」と連絡があったばかりでした。ですから突然訃報の連絡が届いた時に私は、前後のことを考えるでもなく、仲代達矢さん追悼の意志を高く掲げて、実現させたいと考えているところです。

 思えばドラマ「光は東方より~野口英世伝」(1976年)でご一緒して以来、来年は50年目の節目を迎えます。仲代さんは次回公演として「どん底」(ゴーリキー作)の自主稽古を始めていたと聞きました。「プロは死ぬまでプロ」「生涯修業」を胸に、旅だったのだと思います。
                                     映画監督  稲塚秀孝

俳優 仲代達矢さん追悼(中)

 仲代さんとの仕事
 引き続き亡くなった俳優 仲代達矢さんへの追悼文を続けます。

 仲代達矢さんと私の年の差は17。親子とも兄弟とも異なる年の差でしたが、仲代さんはいつも私を”さんづけ“で呼んでくださり、その温かいお人柄と優しさを感じてきました。

 2008年「人生の歩き方」(NHK教育・全8回放送)を取材・放送しました。昭和7年(1932年)12月13日生まれ。東京のど真ん中・青南小学校に通学、同級生には、終戦時に自害した阿南惟幾陸軍大臣の子弟がいたと聞きました。戦時下には郊外のお寺に”集団疎開“した体験を語ってくれました。その時、「仲代さんの根っこには、戦争体験があるのだ」と感じました。そして無名塾の塾生に、“戦争体験を通して得た、平和を希求する思い」を舞台に一緒に立つことで、長年伝えて来られたのだと考えています。

 二重被爆者の山口彊(つとむ)さんのことをお話ししたのは、その頃だったと思います。仲代さんは「一度山口さんと会ってみたい」と思われたのですが、山口さんは2010年1月に93歳で亡くなり、対面は叶いませんでした。残念なことです。
 その年8月「二重被爆 ヒロシマ ナガサキを生き抜いた記録」(NHK・90分)では、仲代さんに語りをお願いしました。二度の被爆した体験を90歳から世界へ向けて語りはじめ「人間の世界”核“にいらない」と強く訴えた山口さんと”共有”できる思いがあったのではないかと感じました。

フクシマ2011~被曝に晒された人々の記録」(2012年)
書くことの重さ~作家佐藤泰志」(2013年)でも語りをお願いしました。

 そして劇映画「NORIN TEN~稲塚権次郎物語」への出演依頼のために、東京・世田谷の無名塾を訪ねたのは、2013年冬でした。小麦農林10号の育種(昭和10年)に心血を注いだ稲塚権次郎さんは、私の祖父のいとこにあたります。
 地元富山の城端町(現在南砺市)の農家の長男に生まれ、寒冷地でも収量が多い品種を作り、農家を豊かにしたいと考えて、育種家を目指した権次郎さんを仲代さんは飄々と演じてくれました。地元の皆さんの協力で行われた撮影の最後は“野焼き”のシーンでした。小高い丘の平地に木のやぐらを組み、ご遺体が入った箱に火を放ち、埋葬する風習は、半世紀前まで実際に行われていました。亡き妻の骨を拾う場面で、大量の煙を吸ってしまった仲代さんは、その夜体調不良になりました。
 元々喘息の持病があったにもかかわらず、撮影現場での配慮が足りなかったのです。撮影を中断して、帰京する手筈を取りましたが、地元の医師の治療を受けて、数日で回復することができました。今となっては、大事に至らずによかったと、思っています。

 そして劇映画「NORIN TEN~稲塚権次郎物語」への出演依頼のために、東京・世田谷の無名塾を訪ねたのは、2013年冬でした。小麦農林10号の育種(昭和10年)に心血を注いだ稲塚権次郎さんは、私の祖父のいとこにあたります。
 地元富山の城端町(現在南砺市)の農家の長男に生まれ、寒冷地でも収量が多い品種を作り、農家を豊かにしたいと考えて、育種家を目指した権次郎さんを仲代さんは飄々と演じてくれました。地元の皆さんの協力で行われた撮影の最後は“野焼き”のシーンでした。小高い丘の平地に木のやぐらを組み、ご遺体が入った箱に火を放ち、埋葬する風習は、半世紀前まで実際に行われていました。亡き妻の骨を拾う場面で、大量の煙を吸ってしまった仲代さんは、その夜体調不良になりました。
 元々喘息の持病があったにもかかわらず、撮影現場での配慮が足りなかったのです。撮影を中断して、帰京する手筈を取りましたが、地元の医師の治療を受けて、数日で回復することができました。今となっては、大事に至らずによかったと、思っています。
 
 「仲代達矢”役者”を生きる」(2015年)は、イヨネスコ作「授業」を稽古から能登と無名塾で行われた公演までを追った作品でした。膨大なセリフを筆写し、寝室の壁に張り巡らすところから映画は始まります。数か月かけて、セリフを覚えることと苦闘する姿を撮影しながら、仲代さんが口癖にしていた「役者は生涯修業」という言葉が浮かび上がってきました。その時、仲代さんは80歳を越えていたのです。

                                     映画監督  稲塚秀孝

俳優 仲代達矢さん追悼 (上) 

     真っ青な空に向かって・・・ 出会いの日々

 2025年11月14日午後2時少し前。東京・世田谷の閑静な住宅街の一角にある無名塾(仲代劇堂)を、俳優仲代達矢さんが旅立って行きました。二度とこの場所に戻ることはありません。仲代さんの身体を載せた霊柩車が、短くクラクションを鳴らして立ち去る時、「仲代さん」「ありがとう」など、さまざまな声が飛び交いました。

 2025年11月14日午後2時少し前。東京・世田谷の閑静な住宅街の一角にある無名塾(仲代劇堂)を、俳優仲代達矢さんが旅立って行きました。二度とこの場所に戻ることはありません。仲代さんの身体を載せた霊柩車が、短くクラクションを鳴らして立ち去る時、「仲代さん」「ありがとう」など、さまざまな声が飛び交いました。

 俳優 仲代達矢さんと初めて仕事をしたのは1976年11月放送の「光は東方より~野口英世伝」でした。仲代さんは42歳、私は一年前から、3本のスペシャルドラマの助監督を務め、25歳でした。ドラマ作りの面白さを感じ始めた時に、大スターだった仲代さんを迎えて、衣装合わせから立ち会えたのは、至福の時間でした。日曜夜1時間ドラマの前後編2本。アメリカ(ニューヨーク)に続き、ガーナ(西アフリカ)でのロケも組まれていました。野口英世博士が「黄熱病」研究に関わる撮影でした。黄熱病や狂犬病などの予防注射を受けました。

 ガーナ(アクラ)の空港税関でビデオ撮影機材が出てこないトラブルに見舞われました。一旦ホテルに入り、2日後に撮影機材が手元に届き、撮影が始まりました。主役の仲代さん、この海外ロケにマネージャー、衣装・メイク担当も同行していません。一人で乗り込んでいたのです。撮影日の朝4時、仲代さんのドアをノックすると、「どうぞ」の低い声。すでに鏡に向かい、ご自分でメイクを始めていました。あとで知るのですが、仲代さんが所属する劇団俳優座では、メイク、衣装や持道具を整え、舞台に立つのは自分一人で行うのが当たり前だったのです。

 翌1977年「海は甦える」(TBS3時間放送)で仲代さんと一緒になりました。薩摩出身の山本権兵衛(海軍大臣、首相)を演じ、吉永小百合さんはじめ、重厚なキャストが組まれました。チーフ助監督だった私は、全体的なロケやスタジオ撮影準備のほか、一部の配役も任されるようになりました。仲代さんが演じる山本権兵衛海軍大臣が、日露戦争における「日本海海戦」の連合艦隊司令長官を決める際、先輩の上村彦之亟海軍大将に”引退”を迫る重要な場面がありました。私は東映映画で存在感を発揮していた俳優 室田日出男さんに上村役を依頼しました。仲代さんと室田さんが対峙するワンシーン。山本邸で酒を酌み交わしながら、引導を渡す、大事な撮影でした。私は今野勉監督と仲代さんと相談の上、スタジオ撮影日の最後に香盤(撮影の日程)を組み入れました。

 夜10時開始、エンドレス(終了時間未定)です。盃を交わしながら、怒鳴りあいながら上村大将に“引導”を渡す山本海軍大臣。二人の役者の”渾身の演技“が繰り広げられました。実際にはお酒ではなく水を飲み続け、メイク担当が徐々に顔を赤らめさせ、妻役の吉永小百合さんが、心配そうに廊下に佇む迫真の場面が終了したのは、4時間後の午前2時頃だったと記憶しています。スタッフから労いの大きな拍手、仲代さんと室田さんは抱き合って、お互いの健闘を讃えあいました。

 それから半世紀が経ちますが、少し前に無名塾に訪ねた時「あのシーンはすごかったね」と仲代さんと懐かしんで話したのを思い出されます。

                                     映画監督  稲塚秀孝

 HP編者補:稲塚秀孝映画監督の主な仲代達矢主演映画作品(予告編)
      ■NORINTEN~稲塚権次郎物語仲代達矢「役者」を生きる
      ■「役者」として生きる無名塾31期生の4人