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●すべてのカネミ油症被害者救済へ(186)8月4日 NEW!
 
~カネミ油症を”世界へ伝える”を考える~

今から16年前のこと。
2010年1月4日に、山口彊(やまぐち つとむ)さんが93歳で
亡くなった。私が2005年から取材し、ガンの闘病を経て、
亡くなる2週間前には、ジェームズ・キャメロン監督が長崎へ
お見舞いにかけつけてくれた。山口さんは「I Have done My
Duty」(私はやり切った)と最後に、英語で伝えました。
山口さんは、広島(昭和20年8月6日)、長崎(8月9日)と二度
被爆した”二重被爆者”だったのです。

そして1月後半、英国のBBC放送が、山口さんの被爆体験を
”揶揄”し、”笑いの種”にしたとの報道が流れました。曰く、
「二度も被爆したのに、90歳過ぎまで生きたのは、矛盾だ」と
いうことを”笑い”に変える内容でした。

山口さんのご遺族と田上富久長崎市長は、連名でBBCに抗議を
しましたが、返事は返ってこず、むろん”謝罪”もありません。
そこで私は同年(2010年)夏にロンドン大学で「二重被爆~
語り部・山口彊の遺言」
(英語版)の上映会を行うため、渡英。
上映に際しては、ロンドン大学と英国に住む”日本人会”が協力
してくれたのは、ありがたかったです。
2回の上映会に、学生と市民合わせて500名が見て、さまざまな
感想を寄せてくれたのを思い出します。

「一度ならず、二度も被爆した人がいたとは、知らなかった」
「山口さんが強く生き抜いてこられたことに感動した」との感想、
一方「二重被爆は悲惨な出来事だったが、英国に住む僕たちには
”ホロコーストの悲惨な出来事”がより重いと感じている」という
意見を聴くことができたのは、心に沁みる言葉でした。

すべてのカネミ油症被害者救済を叶えるためには、さまざまな
”戦略と戦術”、方法を駆使しなくてならないと感じています。
それは、「二重被爆」を国内外に伝えようと、2006年夏に山口彊
さんと共に、国際連合に乗り込んだことも重要なファクターで
あったと思うからです。

カネミ油症被害者救済に向けて、国際連合やWHO(世界保健機構)
等に、ダイオキシン類による身体被害(重篤な症状)を伝えること
と被害者の”人権”も合わせてアピールすることが必須なのだと改めて
考えて、アクションを進め、つないでゆきたいと思うのです。

カネミ油症被害者救済プロジェクト  稲塚秀孝

すべてのカネミ油症被害者救済へ(185)8月3日 
 ~「憲法を武器として」上映会で~

昨日東京・文京区民センターで、「憲法を武器として~
恵庭事件 知られざる50年目真実」
上映会を行った。
猛暑日に集まった来場者は3名。
初めてご覧になる男性1名と何度目かの女性2名。
いずれも70代の方々である。
因みに文京上映会は通算79回目となった。
映画が完成した2017年9月から、ほぼ毎月上映会を開いて
きた、その積み重ねがあるのだ。

上映後に小一時間”アフタートーク”を行いました。

「憲法を武器として」は、1963年9月から1967年3月まで、
札幌地裁で行われた”恵庭裁判”40回の公判と、判決までの
法廷劇が中心となっている。当時被告の野崎兄弟を支援した
「北海道平和委員会」に保存されていた膨大な”公判記録”が
原資料として構成されたのだ。
①公判の様子をテープレコーダーで収録した
 (裁判官の許可を得て実行された)
②被告も検事や弁護士と同等に、挙手をして自由に発言していた
映画完成当初から、②について、”違和感”を覚える観客は多く、
被告も公判に積極的に参加しているのは”演出”ですか?という
質問が多かった。

今回も同じ質問が飛んだ。
「私も最近裁判を傍聴しているけど、当時は本当にこんな感じ
だったのですか?」と。

私は”公判記録”に書かれた内容を忠実に再現したことと、
当時の裁判所の様子を、そのつど丁寧に伝えることにしている。

実は「母と子の絆~カネミ油症の真実」を製作した時にも、
1987年最高裁で”和解”(実態は被害者=原告が取り下げた)
により、あっけなく終わるまでの裁判記録を弁護団に求めた
のだが、何と、何と、すでに裁判記録は”廃棄”してしまった
と聞かされた。
私はその時「カネミ油症事件」最大の”闇”だと感じた。

それでも ある新聞社の支局に残されていた福岡地裁、高裁
の記録(ごく一部)を読むことができたが、全容に迫ること
はできず、断念するしかなかった。

”公文書”の取扱いがずさんなのは、官民に共通した、この国の
”悪弊”に違いない。つまり、残したくない”記録”があり、残す
ことを阻んできた”歴史”があるのだ。
1945年8月15日の敗戦以降、全国各地で、米軍占領前に、
膨大な資料を焼却していた事実は、その”証左”である。

「憲法を武器として」を観た男性はアンケート用紙に、
「恵庭事件のことが分かった気がする」と書いてくれた。

製作者として嬉しく思うのは当然である。
次回「憲法を武器として」第80回文京上映会は、9月19日(土)
14時から、文京区民センター3C会議室である。

カネミ油症被害者救済プロジェクト   稲塚秀孝

すべてのカネミ油症被害者救済へ(184)8月2日 
~ドロドロとした”空気”がそこにある 筑豊編~
 
私が初めて筑豊の地に入ったのは、1970年の初夏のこと
でした。大学2年、20歳の頃です。
当時姉が住む小倉(地方銀行の社宅)にお世話になりながら、
国鉄で小倉から黒崎へ、そこから筑豊電鉄で中間市内に
向かいました。片道約1時間の行程を、一週間通いました。
誰か知り合いがいたわけではありません。

「サークル村」という文化創造運動があり、日米安保改定
(1960年)を境に、激しい「大正炭坑闘争」が繰り広げられた
”残滓”が残る町の雰囲気を感じ取りたいと思いました。
私は秘かに、哲学科の卒論を「九州左翼運動」で書こうという
”野望”を抱いていたのですが、結局それを果たすことはできず
じまいでした。ただ、「サークル村」の主要メンバーで、数々の
作品を遺した作家 上野英信さんと連絡が取れ、見も知らぬ
一学生の”願い“に応えて下さったのは、望外の喜びでした。
それは「サークル村を読むことはできますか?」という問いに、
上野さんは、「いま西日本新聞の記者に預けてあるから、そちら
から送らせるので、読んでみてください」と、丁寧に声をかけて
いただいたのです。

その当時の中間市議会には、現役バリバリの”任侠”の精神を持つ
議員がいると聞き、人と人の繋がりの”濃さ”が生きているのだと
感じたのを覚えています。
カネミ油症事件が明らかになった1968年以降、謝罪と補償を求めて、
小倉の港近くの「カネミ倉庫」に、多くの被害者が押しかけました。
「カネミ倉庫」前に長くテントを張って、闘いを続けた方々もいました。

今も「カネミ倉庫」は60年前と同じ場所で貸倉庫業と”ライスオイル”の
製造を行っています。さすがに「カネミライスオイル」では販売できず、
1968年5月に設立された「福岡製油」と看板を変えていますが・・。

1968年から2026年、複雑にもつれた糸が絡み合った「カネミ油症事件」
の歴史をどのように解明し、すべての被害者救済を実現してゆくのか、
やるべきことは数多く残されていると感じています。

カネミ油症被害者救済プロジェクト  稲塚秀孝

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■映画「母と子の絆~カネミ油症の真実」(問合せ先:090-3433-6644 稲塚)
上映会の予定予定・実績一覧リスト随時更新しています)  
  ①文京区民センター3C会議室(地下鉄「春日」「後楽園」から徒歩1~5分)
   9/22(火・祝) 14:00~開場13時30分
  ②五島市総合福祉保健センター 教養娯楽室 (五島市三尾野1-7-1)
   10/10(土)10:15~ 開場9:30 

スクリーンショット  プレリリース  ★映画のダイジェスト版(35分)の活用のお願い!

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