~ドロドロとした”空気”がそこにある 筑豊編~
私が初めて筑豊の地に入ったのは、1970年の初夏のこと
でした。大学2年、20歳の頃です。
当時姉が住む小倉(地方銀行の社宅)にお世話になりながら、
国鉄で小倉から黒崎へ、そこから筑豊電鉄で中間市内に
向かいました。片道約1時間の行程を、一週間通いました。
誰か知り合いがいたわけではありません。
「サークル村」という文化創造運動があり、日米安保改定
(1960年)を境に、激しい「大正炭坑闘争」が繰り広げられた
”残滓”が残る町の雰囲気を感じ取りたいと思いました。
私は秘かに、哲学科の卒論を「九州左翼運動」で書こうという
”野望”を抱いていたのですが、結局それを果たすことはできず
じまいでした。ただ、「サークル村」の主要メンバーで、数々の
作品を遺した作家 上野英信さんと連絡が取れ、見も知らぬ
一学生の”願い“に応えて下さったのは、望外の喜びでした。
それは「サークル村を読むことはできますか?」という問いに、
上野さんは、「いま西日本新聞の記者に預けてあるから、そちら
から送らせるので、読んでみてください」と、丁寧に声をかけて
いただいたのです。
その当時の中間市議会には、現役バリバリの”任侠”の精神を持つ
議員がいると聞き、人と人の繋がりの”濃さ”が生きているのだと
感じたのを覚えています。
カネミ油症事件が明らかになった1968年以降、謝罪と補償を求めて、
小倉の港近くの「カネミ倉庫」に、多くの被害者が押しかけました。
「カネミ倉庫」前に長くテントを張って、闘いを続けた方々もいました。
今も「カネミ倉庫」は60年前と同じ場所で貸倉庫業と”ライスオイル”の
製造を行っています。さすがに「カネミライスオイル」では販売できず、
1968年5月に設立された「福岡製油」と看板を変えていますが・・。
1968年から2026年、複雑にもつれた糸が絡み合った「カネミ油症事件」
の歴史をどのように解明し、すべての被害者救済を実現してゆくのか、
やるべきことは数多く残されていると感じています。
カネミ油症被害者救済プロジェクト 稲塚秀孝