すべてのカネミ油症被害者救済へ(94)

 ~虎の尾を踏む~

 11月7日の高市首相の発言から、瞬く間に中国と日本との”緊張関係”が高まっています。まさに“虎の尾を踏む”行為は、危険なものだと言うしかありません。

 11月23日(日)東京・文京区民センターで「母と子の絆~カネミ油症の真実」の上映会があり、昨日私が関わっている2つの情報ネットワークに発信しました。この映画の内容が「不適切な映像使用」と厚生労働省及び九州大学油症治療研究班から名指しされていることを示しました。

 10月20日、厚労省の健康・生活局の担当者に対し、6回目の「要請書」を送り、その中で「不適切な映像使用」とは何を指しているのか?6月14日の「三者協議」後の記者会見の撮影・録音を禁止したことへの抗議と映画製作委員会への謝罪を求めています。回答期限の11月14日夕刻、厚労省から、「来週中(11月21日)に回答する」旨、連絡が来ましたので、11月23日上映会後に”回答内容”を来場者にお伝えしようと考えています。私は、厚労省が「不適切な映像使用」として、記者会見の撮影・録音を禁止したことは、まさに”虎の尾を踏む”行為だったと思います。
次回の「三者協議」は来年1月24日ですので、年内に決着をつけたいと考えています。

                      カネミ油症被害者救済プロジェクト   稲塚秀孝

俳優 仲代達矢さん追悼(下)

  プロは死ぬまでプロ
 
 無名塾は1975年に設立されましたので、今年50年目を迎えました。仲代達矢さんと妻 恭子(劇作家・演出家)が、若い俳優を育てる目的で始め、現在までに250名越える塾員を世に送り出してきました。
 1995年に作られた仲代劇堂(稽古場)の一角に「無名塾修業覚書」が張り出されています。生前恭子さんが書いた筆文字です。

一、 無名塾は高度の目標をかかげたプロフェッショナルな俳優達の生涯修業を目的とした修練の場で
  ある事を第一義おする
二、 無名塾の生涯修業は、三年を養成期、それ以後を修業期とする
と位置づけています。
 仲代さんは日頃塾員に「生涯修業」つまり、「プロは死ぬまでプロ」という教えを授けてきたのです。また「無名塾」の名には、俳優を続けていても、いつでも無名になって、戻って来られる“場所”という意味が込められていたのです。

 2022年「役者として生きる~無名塾第31期生の4人」が完成し、全国上映されました。無名塾で3年間修業を重ねる4人の若者たちはコロナ禍と重なり、仲代さん数少ない指導を受けられませんでしたし、修業を覆えた「卒塾式」が開かれませんでした。

 しかし4人揃っての舞台「左の腕」(2021)では、新たな塾員として挨拶ができました。それから4年、誰一人欠けることなく、この夏の「肝っ玉おっ母と子供たち」の舞台に立ち、役者として仲代さんの背中を追う”決意“を固めています。

 「影武者」(1980年)では、苫東地区と厚真町がロケ地となり、「春との旅」(2010年)は、苫小牧市内で撮影が行われました。今年6月「苫東映画祭」の際、仲代さんは「肝っ玉おっ母と子供たち」能登公演を終えたばかりで、来苫は実現しませんでしたが、後日メッセージをいただきました。
「『春との旅』を全国から集まった皆さんに観ていただけて良かった。私も『苫東映画祭』に参加したかった」と。それを聞いて私は、来年6月半ばに「苫東映画祭2026」を開催し、ゲストに仲代さんを迎え、「人間の條件」や「切腹」を上映しようと準備をし始めました。10月下旬、亡くなる10日前には、「来年の『苫東映画祭』を楽しみにしている」と連絡があったばかりでした。ですから突然訃報の連絡が届いた時に私は、前後のことを考えるでもなく、仲代達矢さん追悼の意志を高く掲げて、実現させたいと考えているところです。

 思えばドラマ「光は東方より~野口英世伝」(1976年)でご一緒して以来、来年は50年目の節目を迎えます。仲代さんは次回公演として「どん底」(ゴーリキー作)の自主稽古を始めていたと聞きました。「プロは死ぬまでプロ」「生涯修業」を胸に、旅だったのだと思います。
                                     映画監督  稲塚秀孝

俳優 仲代達矢さん追悼(中)

 仲代さんとの仕事
 引き続き亡くなった俳優 仲代達矢さんへの追悼文を続けます。

 仲代達矢さんと私の年の差は17。親子とも兄弟とも異なる年の差でしたが、仲代さんはいつも私を”さんづけ“で呼んでくださり、その温かいお人柄と優しさを感じてきました。

 2008年「人生の歩き方」(NHK教育・全8回放送)を取材・放送しました。昭和7年(1932年)12月13日生まれ。東京のど真ん中・青南小学校に通学、同級生には、終戦時に自害した阿南惟幾陸軍大臣の子弟がいたと聞きました。戦時下には郊外のお寺に”集団疎開“した体験を語ってくれました。その時、「仲代さんの根っこには、戦争体験があるのだ」と感じました。そして無名塾の塾生に、“戦争体験を通して得た、平和を希求する思い」を舞台に一緒に立つことで、長年伝えて来られたのだと考えています。

 二重被爆者の山口彊(つとむ)さんのことをお話ししたのは、その頃だったと思います。仲代さんは「一度山口さんと会ってみたい」と思われたのですが、山口さんは2010年1月に93歳で亡くなり、対面は叶いませんでした。残念なことです。
 その年8月「二重被爆 ヒロシマ ナガサキを生き抜いた記録」(NHK・90分)では、仲代さんに語りをお願いしました。二度の被爆した体験を90歳から世界へ向けて語りはじめ「人間の世界”核“にいらない」と強く訴えた山口さんと”共有”できる思いがあったのではないかと感じました。

フクシマ2011~被曝に晒された人々の記録」(2012年)
書くことの重さ~作家佐藤泰志」(2013年)でも語りをお願いしました。

 そして劇映画「NORIN TEN~稲塚権次郎物語」への出演依頼のために、東京・世田谷の無名塾を訪ねたのは、2013年冬でした。小麦農林10号の育種(昭和10年)に心血を注いだ稲塚権次郎さんは、私の祖父のいとこにあたります。
 地元富山の城端町(現在南砺市)の農家の長男に生まれ、寒冷地でも収量が多い品種を作り、農家を豊かにしたいと考えて、育種家を目指した権次郎さんを仲代さんは飄々と演じてくれました。地元の皆さんの協力で行われた撮影の最後は“野焼き”のシーンでした。小高い丘の平地に木のやぐらを組み、ご遺体が入った箱に火を放ち、埋葬する風習は、半世紀前まで実際に行われていました。亡き妻の骨を拾う場面で、大量の煙を吸ってしまった仲代さんは、その夜体調不良になりました。
 元々喘息の持病があったにもかかわらず、撮影現場での配慮が足りなかったのです。撮影を中断して、帰京する手筈を取りましたが、地元の医師の治療を受けて、数日で回復することができました。今となっては、大事に至らずによかったと、思っています。

 そして劇映画「NORIN TEN~稲塚権次郎物語」への出演依頼のために、東京・世田谷の無名塾を訪ねたのは、2013年冬でした。小麦農林10号の育種(昭和10年)に心血を注いだ稲塚権次郎さんは、私の祖父のいとこにあたります。
 地元富山の城端町(現在南砺市)の農家の長男に生まれ、寒冷地でも収量が多い品種を作り、農家を豊かにしたいと考えて、育種家を目指した権次郎さんを仲代さんは飄々と演じてくれました。地元の皆さんの協力で行われた撮影の最後は“野焼き”のシーンでした。小高い丘の平地に木のやぐらを組み、ご遺体が入った箱に火を放ち、埋葬する風習は、半世紀前まで実際に行われていました。亡き妻の骨を拾う場面で、大量の煙を吸ってしまった仲代さんは、その夜体調不良になりました。
 元々喘息の持病があったにもかかわらず、撮影現場での配慮が足りなかったのです。撮影を中断して、帰京する手筈を取りましたが、地元の医師の治療を受けて、数日で回復することができました。今となっては、大事に至らずによかったと、思っています。
 
 「仲代達矢”役者”を生きる」(2015年)は、イヨネスコ作「授業」を稽古から能登と無名塾で行われた公演までを追った作品でした。膨大なセリフを筆写し、寝室の壁に張り巡らすところから映画は始まります。数か月かけて、セリフを覚えることと苦闘する姿を撮影しながら、仲代さんが口癖にしていた「役者は生涯修業」という言葉が浮かび上がってきました。その時、仲代さんは80歳を越えていたのです。

                                     映画監督  稲塚秀孝

俳優 仲代達矢さん追悼 (上) 

     真っ青な空に向かって・・・ 出会いの日々

 2025年11月14日午後2時少し前。東京・世田谷の閑静な住宅街の一角にある無名塾(仲代劇堂)を、俳優仲代達矢さんが旅立って行きました。二度とこの場所に戻ることはありません。仲代さんの身体を載せた霊柩車が、短くクラクションを鳴らして立ち去る時、「仲代さん」「ありがとう」など、さまざまな声が飛び交いました。

 2025年11月14日午後2時少し前。東京・世田谷の閑静な住宅街の一角にある無名塾(仲代劇堂)を、俳優仲代達矢さんが旅立って行きました。二度とこの場所に戻ることはありません。仲代さんの身体を載せた霊柩車が、短くクラクションを鳴らして立ち去る時、「仲代さん」「ありがとう」など、さまざまな声が飛び交いました。

 俳優 仲代達矢さんと初めて仕事をしたのは1976年11月放送の「光は東方より~野口英世伝」でした。仲代さんは42歳、私は一年前から、3本のスペシャルドラマの助監督を務め、25歳でした。ドラマ作りの面白さを感じ始めた時に、大スターだった仲代さんを迎えて、衣装合わせから立ち会えたのは、至福の時間でした。日曜夜1時間ドラマの前後編2本。アメリカ(ニューヨーク)に続き、ガーナ(西アフリカ)でのロケも組まれていました。野口英世博士が「黄熱病」研究に関わる撮影でした。黄熱病や狂犬病などの予防注射を受けました。

 ガーナ(アクラ)の空港税関でビデオ撮影機材が出てこないトラブルに見舞われました。一旦ホテルに入り、2日後に撮影機材が手元に届き、撮影が始まりました。主役の仲代さん、この海外ロケにマネージャー、衣装・メイク担当も同行していません。一人で乗り込んでいたのです。撮影日の朝4時、仲代さんのドアをノックすると、「どうぞ」の低い声。すでに鏡に向かい、ご自分でメイクを始めていました。あとで知るのですが、仲代さんが所属する劇団俳優座では、メイク、衣装や持道具を整え、舞台に立つのは自分一人で行うのが当たり前だったのです。

 翌1977年「海は甦える」(TBS3時間放送)で仲代さんと一緒になりました。薩摩出身の山本権兵衛(海軍大臣、首相)を演じ、吉永小百合さんはじめ、重厚なキャストが組まれました。チーフ助監督だった私は、全体的なロケやスタジオ撮影準備のほか、一部の配役も任されるようになりました。仲代さんが演じる山本権兵衛海軍大臣が、日露戦争における「日本海海戦」の連合艦隊司令長官を決める際、先輩の上村彦之亟海軍大将に”引退”を迫る重要な場面がありました。私は東映映画で存在感を発揮していた俳優 室田日出男さんに上村役を依頼しました。仲代さんと室田さんが対峙するワンシーン。山本邸で酒を酌み交わしながら、引導を渡す、大事な撮影でした。私は今野勉監督と仲代さんと相談の上、スタジオ撮影日の最後に香盤(撮影の日程)を組み入れました。

 夜10時開始、エンドレス(終了時間未定)です。盃を交わしながら、怒鳴りあいながら上村大将に“引導”を渡す山本海軍大臣。二人の役者の”渾身の演技“が繰り広げられました。実際にはお酒ではなく水を飲み続け、メイク担当が徐々に顔を赤らめさせ、妻役の吉永小百合さんが、心配そうに廊下に佇む迫真の場面が終了したのは、4時間後の午前2時頃だったと記憶しています。スタッフから労いの大きな拍手、仲代さんと室田さんは抱き合って、お互いの健闘を讃えあいました。

 それから半世紀が経ちますが、少し前に無名塾に訪ねた時「あのシーンはすごかったね」と仲代さんと懐かしんで話したのを思い出されます。

                                     映画監督  稲塚秀孝

 HP編者補:稲塚秀孝映画監督の主な仲代達矢主演映画作品(予告編)
      ■NORINTEN~稲塚権次郎物語仲代達矢「役者」を生きる
      ■「役者」として生きる無名塾31期生の4人

すべてのカネミ油症被害者救済へ(93)

 ~厚労省から”遅延”の連絡(11月14日)~

 すでにこの欄でお伝えした、6回目の「要請書」の回答期限が昨日(11月14日)でしたが、夕刻に”1週間以内に回答する”旨、”遅延の連絡”が来ました。回答期日が守られたことは過去もありませんが、とにかく待ちたいと思います。

 昨年12月末に1回目の「要請書」を送ってから、ほぼ1年。本年1月末に映画「母と子の絆~カネミ油症の真実」国会上映会(参議院議員会館)、2月上旬に参議院議員事務所で厚労省担当課との面談などを経て、前回(92)でお伝えした内容の「要請書」を送った経緯があります。

 カネミ油症被害者の救済には、
①認定制度の廃棄
②被害者救済に向けた、国の新たな取り組みが必要です。

 カネミ油症事件から57年が経過した中で、”カネミ油症事件は終わっていない”こと、”被害者救済の道”を切り開かないことを痛感しています。引き続き、広く皆様のご支援・ご協力をお願いしたいと思います。

                       カネミ油症被害者救済プロジェクト  稲塚秀孝

すべてのカネミ油症被害者救済へ(92)

 臨時国会では、今日から参議院予算委員会が開かれ、明日以降も続けられる見込みです。この臨時国会の”主目的”は、補正予算に向けた議論が中心ですが、長く与党・自民党の振る舞いにより、”政治的空白”があったことと、高市政権の今後の国政運営の姿勢を問うことがポイントと言えます。

  ここまでの論戦を見ると、高市総理はまるで“独善的な人物”であると分かり、政治家として、国民の生活と福祉に寄与できるようなバランスを持ち合わせていないことがわかります。

 「カネミ油症被害者救済プロジェクト」としては、被害者救済に向けた道を開くために、”国会質問”の場を待ち望んでいます。

  11月14日には、厚生労働省健康・生活局食品監視安全課に提出した6回目「要請書」の回答期限が参ります。明日13日夜にも、”回答督促”のメールを送るところです。今回の「要請書」のポイントは4つ。
①カネミ油症被害者の認定のための”診断基準”に”法的根拠がない”ことが 明らかになっており、事件発生(1968年)から60年間、被害者の”認定””未認定”を実施していた責任は重いと考えています。現行の診断基準を、即時撤回し、白紙とし、新たな被害者の”基準”作成 に取り掛からなければなりません。
②今から20年前の2007年に長崎県五島市の中尾郁子市長(当時)がカネミ倉庫の加藤大明社長に面談し、「五島市が立て替えている”カネミ油症被害者の医療費”の支払いを迫りましたが、カネミ倉庫は今も未払いのままです。積みあがった未払い額は、20億円を越えていて、他の自治体も同様です。今こそ、国(厚生労働省)が、被害者救済に向き合わなければなりません。
③「不適切な映像使用」 に関する件。
 映画「母と子の絆~カネミ油症の真実」において、厚労省と九州大学(油症 治療研究班)との”関係性”について描いたことが「不適切な映像使用」と言いがかりをつけられ、6月14日の「三者会議」後の記者会見(厚生労働省・農林水産省)の撮影・録音が一方的に禁止されました。開かれた記者会見の取材・編集・公開を阻止したことに対し、撤回と謝罪を求めています。
 なお次回の「三者協議」は、2026年1月24日に予定されています。
④カネミ油症被害者の救済に向けて。
 被害者の新たな”基準”を提案しました。この基準案についての回答を求めています。

 今後国会の場において、政府の姿勢と見解を糺し、救済に向けて前進させたいと思います。
                                2025年11月12日
                 カネミ油症被害者救済プロジェクト   稲塚秀孝

すべてのカネミ油症の被害者救済へ(91)

 ~SNSの罪を撃つ!~

 NHK党の立花党首が逮捕された、と速報が流れました。遅きに過ぎましたが、きちんと犯罪行為を明らかにして欲しいと兵庫県警にお願いしたいと思います。嘘の情報を意図的にSNSに流すことは、絶対に許されません。

 これを機会に”名乗りもせずに”嘘情報やデマを垂れ流す輩を一掃できないかと思います。そのための議論と知恵を絞らないといけないと思います。またそうした輩を放置し、温床となる”業界”の犯罪性を撃つ時期かと思います。何やら、高市政権になって、すべての社会規範が緩(ゆる)くなっていると感じるのは、私だけでしょうか?きちんとやりましょうよ、皆さん。

 さて臨時国会は12月半ばころまでらしく、「カネミ油症問題」の現状を明らかにする”機会”を求めている当プロジェクトとしては、ジリジリとタイミング到来を待っているところです。ここ1か月の展開を待ちたいと思います。

 なお12月6日には、長崎県五島市で「母と子の絆~カネミ油症の真実」の上映会が行われます。
詳細は下欄に掲載)。数多くのカネミ油症被害者(今も救済の兆しさえない)の方々が住む五島市で、被害者の方々の声をお聞きし、今後の活動に繋げたいと思います。

  カネミ油症被害者救済プロジェクト   稲塚秀孝

すべてのカネミ油症被害者救済へ(90)

 ~提案・カネミ油症被害のカテゴリー~

 80年前の夏、広島と長崎に原爆が投下され、甚大な被害がありました。その後、被爆者としての定義は、4つのカテゴリーに定められています。

1)第一号被爆者(直接被爆)  
 原爆投下の時、広島市、長崎市の法令で定められた地域にいた人
2)第二号被爆者(入市被爆)
 原爆投下から2週間以内に、爆心地から2㌔以内の地域に入った人
3)第三号被爆者
 1・2号以外に原爆放射能を身体に受ける状況にあった人。近隣の地域から救援・治療・看護に
 あたった人
4)第四号被爆者(胎内被爆者)
 広島:原爆投下から翌年5月31日までに生まれた人
 長崎:原爆投下から翌年6月3日までに生まれた人で、実母が上記の1~3号に該当する人

 今回この被爆者のカテゴリーを参考にしつつ、カネミ油症被害者の定義とカテゴリーを作成しました。ご覧になった皆様の感想、ご意見を伺いたいと思います。

1)直接被害者(1968年当時、毒性のカネミ油を食べ、油症による被害症状がある人)
2)胎児被害者(父母のいずれかあるいは両方が直接被害者で、実母からへその緒を通して、
油症による被害症状がある子どもの場合)
3)次世代被害者(父母のいずれかあるいは両方が胎児被害者で、へその緒を通して、油症による
被害症状がある子どもの場合、直接被害者の孫・ひ孫にあたる)
1)~3)に該当する者は、すべてカネミ油症被害者と認められ、国による救済を受けることとする。

 なお2・3は同じカテゴリーではないか?と思われる方もいるかもしれませんが、そもそも映画「母と子の絆~カネミ油症の真実」製作の段階から、「へその緒」に着目し、「へその緒プロジェクト」を立ち上げ、母から子(胎児)」へダイオキシン類の”毒性”が移行することから、あえて2と3の区分を分けたました。ご理解いただければと思います。

 自民党の”裏金問題追及”そして、今回の維新の藤田共同代表らの”公金還流”問題を摘発した”しんぶん赤旗・赤旗日曜版”チームの”調査報道”こそ、今年度の「日本ジャーナリスト大賞」に値するとともに、”報道のチカラ”を示すものと感じています。

 事件発生から57年を経過した「カネミ油症事件」においても、真摯に”真実追及”のチカラを見せたいものと、改めて決意しました。皆さんのご支援・ご協力をお願い申し上げます。

  カネミ油症被害者救済プロジェクト 稲塚秀孝

すべてのカネミ油症被害者救済へ(89)

 ~メディアの“チカラ”を生かしたい~

 高市政権ができる前から、SNSの”異常さ”が目立ってきている。”オールドメディア”とか、メディアの情報を否定するだけでなく、全く筋違いの”過激な”投稿が見受けられる。ただ言えるのは、それらはみな責任を負えない身勝手な”連中”であるということだ。本来なら”無視しておくべき”だが、あまりにも”集団化”し”増殖”しているので、対処法を考えないといけないと思う。

 報道には”多様性”(あらゆる視点・角度)が“担保”されており、しかも”署名性”が基本である。つまり、”いつでも批判は受けるよ”という覚悟があるということだが、上記のSNS投稿者は”無署名”なので相手が誰かがわからないわけだ。一言でいえば、”言いたいことがあるなら、名を名乗れよ”と言っておきたい。

 連休明けの明日から、国会が機能し始める。何か月空白だったことか?少数政党の自民党の身勝手な”高市=第二次安部劇場”のショーに突き合わされて、国民・市民の生活はますます”困窮の度合い”を深めているのが現実である。

 「カネミ油症被害者救済プロジェクト」としては、事件発生から60年近く経過した今だからこそ、被害者救済の道を開きたい、そのための”大きな戦略”は、国会にあると考えている。先週厚生労働省健康・生活局安全食品監視課に6回目の「要請書」を送り、11月14日までに回答するように伝えている。
何を要請したかについては、後日この欄でみなさまに伝えたいと思っているので、今後の推移をお待ちいただきたいと思っています。

  カネミ油症被害者救済プロジェクト      稲塚秀孝

すべてのカネミ油症被害者救済へ(88)

 ~厚労省へ6回目の「要請書」提出!~

 昨晩(10月28日)厚生労働省健康・生活局食品監視安全課宛に、「カネミ油症被害者救済プロジェクト」名で、要請書を送りました。

 昨年12月から始まった「要請書」提出⇔回答にやり取りを5回行ってきましたが、ここ数回は回答内容に著しい”停滞”が見られました。そこで今回は、
①「カネミ油症被害者の”診断基準”に法的根拠はない」と宣言して、その見解と判断を前提として、今後の「要請」の内容を進めると伝えました。
②次に、カネミ油症事件の”原因企業”が負担すべき、被害者の医療費が約60年に渡って滞っている”事実”が当該自治体への情報公開で明確になったことで、一民間企業にいつまでも責任をかぶせず、国としての対応を明らかにするように、伝えました。

 いずれもこれまで”ブラックボックス”のままだった”闇の案件”であったことを白日の下に晒す必要を感じた次第です。回答期限は11月14日としました。

 来週から論戦が開始する臨時国会において、舞台を”国会”に持ち込みたいと考えています。

   カネミ油症被害者救済プロジェクト   稲塚秀孝