すべてのカネミ油症被害者救済へ(117)

~厚労省から”回答”届く、がまだまだ続く~

23日(金)「油症対策委員会」が福岡県博多駅にある施設内で
開催されました。その日の夜に、厚生労働省へ提出していた
7回目の「申請書」の回答が届きました。
今回も期限となる1月15日から1週間遅れで、しかもまともな
回答ではありませんでした。
今度こそはと期待していましたが、残念至極です。

①カネミ倉庫の医療費未払いに関して、被害者負担分(2~3割分)
 以外の(7~8割分)は、各自治体が負担(肩代わり)しており、
 国も一部負担していませんか?という問いに対し無答でした。
②「三者協議」欠席(2024年1月以降、4回連続)が続くカネミ倉庫
 加藤大明社長(体調不良が理由)に対し、会議への出席(オンライン
 を含む)の強い依頼と共に、会社を代表する人物の出席を求めた
 ことについても無答でした。
 カネミ油症事件の原因企業であるカネミ倉庫の実質的な代表者が
 出席していない状況は、会議の存続にかかる重大な案件と言えます。

 そのほか、「三者協議」後のぶら下がり会見における、撮影・録音
 禁止問題など、厚労省は逃げ回っているのです。

引き続き、カネミ油症被害者救済プロジェクトとして、「申請書」を
(8回目以降)送りたいと考えています。
みなさまのご支援・ご協力をお願い申し上げます。

カネミ油症被害者救済プロジェクト  稲塚秀孝

すべてのカネミ油症被害者救済へ(112)

 ~正月明けに動くこと~

 熊本県水俣市から戻った、「カネミ油症被害者救済プロジェクト」共同代表の藤原寿和さんから連絡がありました。「水俣病事件とカネミ油症事件との連携を行おう」という確証が得られた、というのです。新春にすばらしい展開だと思います。

 正月明けにいくつかのプロジェクトの立ち上げができるかも知れません。すでにお伝えした「カネミ油症事件・五島フォーラム2026」(2026年10月10日開催予定)もその一つです。ヒントは、
①新たな”映像批評プロジェクト”(仮称)の展開です。
 私はSNS民による「オールドメディア」批判を苦々しく思っています。もちろんフランクな、自由な”批判”はOKですが、名前も名乗らない”無署名性“民を許すことができません。”名乗り出ろや!”と言いたいのです。そこで近年低調と思える”映像(テレビ・映画など)批評”の場を作りたいと思っています。近日中にプランを提示し、遅くも今年夏までに開始したいと思います。
②”1960年代プロジェクト”(仮称)の展開です。
 私は「憲法を武器として 恵庭事件知られざる50年目の真実」(2017年)を今も 東京・文京区民センターで上映中です。先日1月10日が第74回目の上映会でした。恵庭事件が起こったのは、1962年12月、札幌地裁で”被告無罪”の判決が出たのは、1967年3月でした。そして昨年秋公開の「市街戦のジャズメン 作家佐藤泰志の衝撃」の題材は、1967年10月8日羽田闘争(佐藤栄作首相 南ベトナム訪問阻止)でした。さらに現在編集中の「幻のかくめい」は、1958年発行の「サークル村」に始まり、 1961年~の「大正炭鉱闘争」(大正行動隊から大正鉱業退職者同盟)に迫る内容となります。

 私が大学に進んだのは、1969年。衝撃は1969年9月5日「全国全共闘結成集会(日比谷野外音楽堂)の現場にいたことでした。はじめて”赤軍派”が登場した瞬間でしたから。当時を生き、活動したり、ノンポリとして眺めていた皆さんに呼びかけたいと思います。

 というように、新たな展開ですが、原点の考え方は、
◆やりたいものがやる、やりたくないものはやらなくていい
◆やりたくないものは、やりたくないという理由で、やりたいものの邪魔はしない
◆やりたくないものが、やりたくなったら、仲間として迎え入れる
ということで考えています。何が、どうできるのか?自分自身でもワクワクしているところです。

                  カネミ油症被害者救済プロジェクト 代表   稲塚秀孝

俳優 仲代達矢さん追悼(下)

  プロは死ぬまでプロ
 
 無名塾は1975年に設立されましたので、今年50年目を迎えました。仲代達矢さんと妻 恭子(劇作家・演出家)が、若い俳優を育てる目的で始め、現在までに250名越える塾員を世に送り出してきました。
 1995年に作られた仲代劇堂(稽古場)の一角に「無名塾修業覚書」が張り出されています。生前恭子さんが書いた筆文字です。

一、 無名塾は高度の目標をかかげたプロフェッショナルな俳優達の生涯修業を目的とした修練の場で
  ある事を第一義おする
二、 無名塾の生涯修業は、三年を養成期、それ以後を修業期とする
と位置づけています。
 仲代さんは日頃塾員に「生涯修業」つまり、「プロは死ぬまでプロ」という教えを授けてきたのです。また「無名塾」の名には、俳優を続けていても、いつでも無名になって、戻って来られる“場所”という意味が込められていたのです。

 2022年「役者として生きる~無名塾第31期生の4人」が完成し、全国上映されました。無名塾で3年間修業を重ねる4人の若者たちはコロナ禍と重なり、仲代さん数少ない指導を受けられませんでしたし、修業を覆えた「卒塾式」が開かれませんでした。

 しかし4人揃っての舞台「左の腕」(2021)では、新たな塾員として挨拶ができました。それから4年、誰一人欠けることなく、この夏の「肝っ玉おっ母と子供たち」の舞台に立ち、役者として仲代さんの背中を追う”決意“を固めています。

 「影武者」(1980年)では、苫東地区と厚真町がロケ地となり、「春との旅」(2010年)は、苫小牧市内で撮影が行われました。今年6月「苫東映画祭」の際、仲代さんは「肝っ玉おっ母と子供たち」能登公演を終えたばかりで、来苫は実現しませんでしたが、後日メッセージをいただきました。
「『春との旅』を全国から集まった皆さんに観ていただけて良かった。私も『苫東映画祭』に参加したかった」と。それを聞いて私は、来年6月半ばに「苫東映画祭2026」を開催し、ゲストに仲代さんを迎え、「人間の條件」や「切腹」を上映しようと準備をし始めました。10月下旬、亡くなる10日前には、「来年の『苫東映画祭』を楽しみにしている」と連絡があったばかりでした。ですから突然訃報の連絡が届いた時に私は、前後のことを考えるでもなく、仲代達矢さん追悼の意志を高く掲げて、実現させたいと考えているところです。

 思えばドラマ「光は東方より~野口英世伝」(1976年)でご一緒して以来、来年は50年目の節目を迎えます。仲代さんは次回公演として「どん底」(ゴーリキー作)の自主稽古を始めていたと聞きました。「プロは死ぬまでプロ」「生涯修業」を胸に、旅だったのだと思います。
                                     映画監督  稲塚秀孝

俳優 仲代達矢さん追悼(中)

 仲代さんとの仕事
 引き続き亡くなった俳優 仲代達矢さんへの追悼文を続けます。

 仲代達矢さんと私の年の差は17。親子とも兄弟とも異なる年の差でしたが、仲代さんはいつも私を”さんづけ“で呼んでくださり、その温かいお人柄と優しさを感じてきました。

 2008年「人生の歩き方」(NHK教育・全8回放送)を取材・放送しました。昭和7年(1932年)12月13日生まれ。東京のど真ん中・青南小学校に通学、同級生には、終戦時に自害した阿南惟幾陸軍大臣の子弟がいたと聞きました。戦時下には郊外のお寺に”集団疎開“した体験を語ってくれました。その時、「仲代さんの根っこには、戦争体験があるのだ」と感じました。そして無名塾の塾生に、“戦争体験を通して得た、平和を希求する思い」を舞台に一緒に立つことで、長年伝えて来られたのだと考えています。

 二重被爆者の山口彊(つとむ)さんのことをお話ししたのは、その頃だったと思います。仲代さんは「一度山口さんと会ってみたい」と思われたのですが、山口さんは2010年1月に93歳で亡くなり、対面は叶いませんでした。残念なことです。
 その年8月「二重被爆 ヒロシマ ナガサキを生き抜いた記録」(NHK・90分)では、仲代さんに語りをお願いしました。二度の被爆した体験を90歳から世界へ向けて語りはじめ「人間の世界”核“にいらない」と強く訴えた山口さんと”共有”できる思いがあったのではないかと感じました。

フクシマ2011~被曝に晒された人々の記録」(2012年)
書くことの重さ~作家佐藤泰志」(2013年)でも語りをお願いしました。

 そして劇映画「NORIN TEN~稲塚権次郎物語」への出演依頼のために、東京・世田谷の無名塾を訪ねたのは、2013年冬でした。小麦農林10号の育種(昭和10年)に心血を注いだ稲塚権次郎さんは、私の祖父のいとこにあたります。
 地元富山の城端町(現在南砺市)の農家の長男に生まれ、寒冷地でも収量が多い品種を作り、農家を豊かにしたいと考えて、育種家を目指した権次郎さんを仲代さんは飄々と演じてくれました。地元の皆さんの協力で行われた撮影の最後は“野焼き”のシーンでした。小高い丘の平地に木のやぐらを組み、ご遺体が入った箱に火を放ち、埋葬する風習は、半世紀前まで実際に行われていました。亡き妻の骨を拾う場面で、大量の煙を吸ってしまった仲代さんは、その夜体調不良になりました。
 元々喘息の持病があったにもかかわらず、撮影現場での配慮が足りなかったのです。撮影を中断して、帰京する手筈を取りましたが、地元の医師の治療を受けて、数日で回復することができました。今となっては、大事に至らずによかったと、思っています。

 そして劇映画「NORIN TEN~稲塚権次郎物語」への出演依頼のために、東京・世田谷の無名塾を訪ねたのは、2013年冬でした。小麦農林10号の育種(昭和10年)に心血を注いだ稲塚権次郎さんは、私の祖父のいとこにあたります。
 地元富山の城端町(現在南砺市)の農家の長男に生まれ、寒冷地でも収量が多い品種を作り、農家を豊かにしたいと考えて、育種家を目指した権次郎さんを仲代さんは飄々と演じてくれました。地元の皆さんの協力で行われた撮影の最後は“野焼き”のシーンでした。小高い丘の平地に木のやぐらを組み、ご遺体が入った箱に火を放ち、埋葬する風習は、半世紀前まで実際に行われていました。亡き妻の骨を拾う場面で、大量の煙を吸ってしまった仲代さんは、その夜体調不良になりました。
 元々喘息の持病があったにもかかわらず、撮影現場での配慮が足りなかったのです。撮影を中断して、帰京する手筈を取りましたが、地元の医師の治療を受けて、数日で回復することができました。今となっては、大事に至らずによかったと、思っています。
 
 「仲代達矢”役者”を生きる」(2015年)は、イヨネスコ作「授業」を稽古から能登と無名塾で行われた公演までを追った作品でした。膨大なセリフを筆写し、寝室の壁に張り巡らすところから映画は始まります。数か月かけて、セリフを覚えることと苦闘する姿を撮影しながら、仲代さんが口癖にしていた「役者は生涯修業」という言葉が浮かび上がってきました。その時、仲代さんは80歳を越えていたのです。

                                     映画監督  稲塚秀孝

俳優 仲代達矢さん追悼 (上) 

     真っ青な空に向かって・・・ 出会いの日々

 2025年11月14日午後2時少し前。東京・世田谷の閑静な住宅街の一角にある無名塾(仲代劇堂)を、俳優仲代達矢さんが旅立って行きました。二度とこの場所に戻ることはありません。仲代さんの身体を載せた霊柩車が、短くクラクションを鳴らして立ち去る時、「仲代さん」「ありがとう」など、さまざまな声が飛び交いました。

 2025年11月14日午後2時少し前。東京・世田谷の閑静な住宅街の一角にある無名塾(仲代劇堂)を、俳優仲代達矢さんが旅立って行きました。二度とこの場所に戻ることはありません。仲代さんの身体を載せた霊柩車が、短くクラクションを鳴らして立ち去る時、「仲代さん」「ありがとう」など、さまざまな声が飛び交いました。

 俳優 仲代達矢さんと初めて仕事をしたのは1976年11月放送の「光は東方より~野口英世伝」でした。仲代さんは42歳、私は一年前から、3本のスペシャルドラマの助監督を務め、25歳でした。ドラマ作りの面白さを感じ始めた時に、大スターだった仲代さんを迎えて、衣装合わせから立ち会えたのは、至福の時間でした。日曜夜1時間ドラマの前後編2本。アメリカ(ニューヨーク)に続き、ガーナ(西アフリカ)でのロケも組まれていました。野口英世博士が「黄熱病」研究に関わる撮影でした。黄熱病や狂犬病などの予防注射を受けました。

 ガーナ(アクラ)の空港税関でビデオ撮影機材が出てこないトラブルに見舞われました。一旦ホテルに入り、2日後に撮影機材が手元に届き、撮影が始まりました。主役の仲代さん、この海外ロケにマネージャー、衣装・メイク担当も同行していません。一人で乗り込んでいたのです。撮影日の朝4時、仲代さんのドアをノックすると、「どうぞ」の低い声。すでに鏡に向かい、ご自分でメイクを始めていました。あとで知るのですが、仲代さんが所属する劇団俳優座では、メイク、衣装や持道具を整え、舞台に立つのは自分一人で行うのが当たり前だったのです。

 翌1977年「海は甦える」(TBS3時間放送)で仲代さんと一緒になりました。薩摩出身の山本権兵衛(海軍大臣、首相)を演じ、吉永小百合さんはじめ、重厚なキャストが組まれました。チーフ助監督だった私は、全体的なロケやスタジオ撮影準備のほか、一部の配役も任されるようになりました。仲代さんが演じる山本権兵衛海軍大臣が、日露戦争における「日本海海戦」の連合艦隊司令長官を決める際、先輩の上村彦之亟海軍大将に”引退”を迫る重要な場面がありました。私は東映映画で存在感を発揮していた俳優 室田日出男さんに上村役を依頼しました。仲代さんと室田さんが対峙するワンシーン。山本邸で酒を酌み交わしながら、引導を渡す、大事な撮影でした。私は今野勉監督と仲代さんと相談の上、スタジオ撮影日の最後に香盤(撮影の日程)を組み入れました。

 夜10時開始、エンドレス(終了時間未定)です。盃を交わしながら、怒鳴りあいながら上村大将に“引導”を渡す山本海軍大臣。二人の役者の”渾身の演技“が繰り広げられました。実際にはお酒ではなく水を飲み続け、メイク担当が徐々に顔を赤らめさせ、妻役の吉永小百合さんが、心配そうに廊下に佇む迫真の場面が終了したのは、4時間後の午前2時頃だったと記憶しています。スタッフから労いの大きな拍手、仲代さんと室田さんは抱き合って、お互いの健闘を讃えあいました。

 それから半世紀が経ちますが、少し前に無名塾に訪ねた時「あのシーンはすごかったね」と仲代さんと懐かしんで話したのを思い出されます。

                                     映画監督  稲塚秀孝

 HP編者補:稲塚秀孝映画監督の主な仲代達矢主演映画作品(予告編)
      ■NORINTEN~稲塚権次郎物語仲代達矢「役者」を生きる
      ■「役者」として生きる無名塾31期生の4人