仲代さんとの仕事
引き続き亡くなった俳優 仲代達矢さんへの追悼文を続けます。
仲代達矢さんと私の年の差は17。親子とも兄弟とも異なる年の差でしたが、仲代さんはいつも私を”さんづけ“で呼んでくださり、その温かいお人柄と優しさを感じてきました。
2008年「人生の歩き方」(NHK教育・全8回放送)を取材・放送しました。昭和7年(1932年)12月13日生まれ。東京のど真ん中・青南小学校に通学、同級生には、終戦時に自害した阿南惟幾陸軍大臣の子弟がいたと聞きました。戦時下には郊外のお寺に”集団疎開“した体験を語ってくれました。その時、「仲代さんの根っこには、戦争体験があるのだ」と感じました。そして無名塾の塾生に、“戦争体験を通して得た、平和を希求する思い」を舞台に一緒に立つことで、長年伝えて来られたのだと考えています。
二重被爆者の山口彊(つとむ)さんのことをお話ししたのは、その頃だったと思います。仲代さんは「一度山口さんと会ってみたい」と思われたのですが、山口さんは2010年1月に93歳で亡くなり、対面は叶いませんでした。残念なことです。
その年8月「二重被爆 ヒロシマ ナガサキを生き抜いた記録」(NHK・90分)では、仲代さんに語りをお願いしました。二度の被爆した体験を90歳から世界へ向けて語りはじめ「人間の世界”核“にいらない」と強く訴えた山口さんと”共有”できる思いがあったのではないかと感じました。
「フクシマ2011~被曝に晒された人々の記録」(2012年)
「書くことの重さ~作家佐藤泰志」(2013年)でも語りをお願いしました。
そして劇映画「NORIN TEN~稲塚権次郎物語」への出演依頼のために、東京・世田谷の無名塾を訪ねたのは、2013年冬でした。小麦農林10号の育種(昭和10年)に心血を注いだ稲塚権次郎さんは、私の祖父のいとこにあたります。
地元富山の城端町(現在南砺市)の農家の長男に生まれ、寒冷地でも収量が多い品種を作り、農家を豊かにしたいと考えて、育種家を目指した権次郎さんを仲代さんは飄々と演じてくれました。地元の皆さんの協力で行われた撮影の最後は“野焼き”のシーンでした。小高い丘の平地に木のやぐらを組み、ご遺体が入った箱に火を放ち、埋葬する風習は、半世紀前まで実際に行われていました。亡き妻の骨を拾う場面で、大量の煙を吸ってしまった仲代さんは、その夜体調不良になりました。
元々喘息の持病があったにもかかわらず、撮影現場での配慮が足りなかったのです。撮影を中断して、帰京する手筈を取りましたが、地元の医師の治療を受けて、数日で回復することができました。今となっては、大事に至らずによかったと、思っています。
そして劇映画「NORIN TEN~稲塚権次郎物語」への出演依頼のために、東京・世田谷の無名塾を訪ねたのは、2013年冬でした。小麦農林10号の育種(昭和10年)に心血を注いだ稲塚権次郎さんは、私の祖父のいとこにあたります。
地元富山の城端町(現在南砺市)の農家の長男に生まれ、寒冷地でも収量が多い品種を作り、農家を豊かにしたいと考えて、育種家を目指した権次郎さんを仲代さんは飄々と演じてくれました。地元の皆さんの協力で行われた撮影の最後は“野焼き”のシーンでした。小高い丘の平地に木のやぐらを組み、ご遺体が入った箱に火を放ち、埋葬する風習は、半世紀前まで実際に行われていました。亡き妻の骨を拾う場面で、大量の煙を吸ってしまった仲代さんは、その夜体調不良になりました。
元々喘息の持病があったにもかかわらず、撮影現場での配慮が足りなかったのです。撮影を中断して、帰京する手筈を取りましたが、地元の医師の治療を受けて、数日で回復することができました。今となっては、大事に至らずによかったと、思っています。
「仲代達矢”役者”を生きる」(2015年)は、イヨネスコ作「授業」を稽古から能登と無名塾で行われた公演までを追った作品でした。膨大なセリフを筆写し、寝室の壁に張り巡らすところから映画は始まります。数か月かけて、セリフを覚えることと苦闘する姿を撮影しながら、仲代さんが口癖にしていた「役者は生涯修業」という言葉が浮かび上がってきました。その時、仲代さんは80歳を越えていたのです。
映画監督 稲塚秀孝