俳優 仲代達矢さん追悼(下)

  プロは死ぬまでプロ
 
 無名塾は1975年に設立されましたので、今年50年目を迎えました。仲代達矢さんと妻 恭子(劇作家・演出家)が、若い俳優を育てる目的で始め、現在までに250名越える塾員を世に送り出してきました。
 1995年に作られた仲代劇堂(稽古場)の一角に「無名塾修業覚書」が張り出されています。生前恭子さんが書いた筆文字です。

一、 無名塾は高度の目標をかかげたプロフェッショナルな俳優達の生涯修業を目的とした修練の場で
  ある事を第一義おする
二、 無名塾の生涯修業は、三年を養成期、それ以後を修業期とする
と位置づけています。
 仲代さんは日頃塾員に「生涯修業」つまり、「プロは死ぬまでプロ」という教えを授けてきたのです。また「無名塾」の名には、俳優を続けていても、いつでも無名になって、戻って来られる“場所”という意味が込められていたのです。

 2022年「役者として生きる~無名塾第31期生の4人」が完成し、全国上映されました。無名塾で3年間修業を重ねる4人の若者たちはコロナ禍と重なり、仲代さん数少ない指導を受けられませんでしたし、修業を覆えた「卒塾式」が開かれませんでした。

 しかし4人揃っての舞台「左の腕」(2021)では、新たな塾員として挨拶ができました。それから4年、誰一人欠けることなく、この夏の「肝っ玉おっ母と子供たち」の舞台に立ち、役者として仲代さんの背中を追う”決意“を固めています。

 「影武者」(1980年)では、苫東地区と厚真町がロケ地となり、「春との旅」(2010年)は、苫小牧市内で撮影が行われました。今年6月「苫東映画祭」の際、仲代さんは「肝っ玉おっ母と子供たち」能登公演を終えたばかりで、来苫は実現しませんでしたが、後日メッセージをいただきました。
「『春との旅』を全国から集まった皆さんに観ていただけて良かった。私も『苫東映画祭』に参加したかった」と。それを聞いて私は、来年6月半ばに「苫東映画祭2026」を開催し、ゲストに仲代さんを迎え、「人間の條件」や「切腹」を上映しようと準備をし始めました。10月下旬、亡くなる10日前には、「来年の『苫東映画祭』を楽しみにしている」と連絡があったばかりでした。ですから突然訃報の連絡が届いた時に私は、前後のことを考えるでもなく、仲代達矢さん追悼の意志を高く掲げて、実現させたいと考えているところです。

 思えばドラマ「光は東方より~野口英世伝」(1976年)でご一緒して以来、来年は50年目の節目を迎えます。仲代さんは次回公演として「どん底」(ゴーリキー作)の自主稽古を始めていたと聞きました。「プロは死ぬまでプロ」「生涯修業」を胸に、旅だったのだと思います。
                                     映画監督  稲塚秀孝

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