俳優 仲代達矢さん追悼 (上) 

     真っ青な空に向かって・・・ 出会いの日々

 2025年11月14日午後2時少し前。東京・世田谷の閑静な住宅街の一角にある無名塾(仲代劇堂)を、俳優仲代達矢さんが旅立って行きました。二度とこの場所に戻ることはありません。仲代さんの身体を載せた霊柩車が、短くクラクションを鳴らして立ち去る時、「仲代さん」「ありがとう」など、さまざまな声が飛び交いました。

 2025年11月14日午後2時少し前。東京・世田谷の閑静な住宅街の一角にある無名塾(仲代劇堂)を、俳優仲代達矢さんが旅立って行きました。二度とこの場所に戻ることはありません。仲代さんの身体を載せた霊柩車が、短くクラクションを鳴らして立ち去る時、「仲代さん」「ありがとう」など、さまざまな声が飛び交いました。

 俳優 仲代達矢さんと初めて仕事をしたのは1976年11月放送の「光は東方より~野口英世伝」でした。仲代さんは42歳、私は一年前から、3本のスペシャルドラマの助監督を務め、25歳でした。ドラマ作りの面白さを感じ始めた時に、大スターだった仲代さんを迎えて、衣装合わせから立ち会えたのは、至福の時間でした。日曜夜1時間ドラマの前後編2本。アメリカ(ニューヨーク)に続き、ガーナ(西アフリカ)でのロケも組まれていました。野口英世博士が「黄熱病」研究に関わる撮影でした。黄熱病や狂犬病などの予防注射を受けました。

 ガーナ(アクラ)の空港税関でビデオ撮影機材が出てこないトラブルに見舞われました。一旦ホテルに入り、2日後に撮影機材が手元に届き、撮影が始まりました。主役の仲代さん、この海外ロケにマネージャー、衣装・メイク担当も同行していません。一人で乗り込んでいたのです。撮影日の朝4時、仲代さんのドアをノックすると、「どうぞ」の低い声。すでに鏡に向かい、ご自分でメイクを始めていました。あとで知るのですが、仲代さんが所属する劇団俳優座では、メイク、衣装や持道具を整え、舞台に立つのは自分一人で行うのが当たり前だったのです。

 翌1977年「海は甦える」(TBS3時間放送)で仲代さんと一緒になりました。薩摩出身の山本権兵衛(海軍大臣、首相)を演じ、吉永小百合さんはじめ、重厚なキャストが組まれました。チーフ助監督だった私は、全体的なロケやスタジオ撮影準備のほか、一部の配役も任されるようになりました。仲代さんが演じる山本権兵衛海軍大臣が、日露戦争における「日本海海戦」の連合艦隊司令長官を決める際、先輩の上村彦之亟海軍大将に”引退”を迫る重要な場面がありました。私は東映映画で存在感を発揮していた俳優 室田日出男さんに上村役を依頼しました。仲代さんと室田さんが対峙するワンシーン。山本邸で酒を酌み交わしながら、引導を渡す、大事な撮影でした。私は今野勉監督と仲代さんと相談の上、スタジオ撮影日の最後に香盤(撮影の日程)を組み入れました。

 夜10時開始、エンドレス(終了時間未定)です。盃を交わしながら、怒鳴りあいながら上村大将に“引導”を渡す山本海軍大臣。二人の役者の”渾身の演技“が繰り広げられました。実際にはお酒ではなく水を飲み続け、メイク担当が徐々に顔を赤らめさせ、妻役の吉永小百合さんが、心配そうに廊下に佇む迫真の場面が終了したのは、4時間後の午前2時頃だったと記憶しています。スタッフから労いの大きな拍手、仲代さんと室田さんは抱き合って、お互いの健闘を讃えあいました。

 それから半世紀が経ちますが、少し前に無名塾に訪ねた時「あのシーンはすごかったね」と仲代さんと懐かしんで話したのを思い出されます。

                                     映画監督  稲塚秀孝

 HP編者補:稲塚秀孝映画監督の主な仲代達矢主演映画作品(予告編)
      ■NORINTEN~稲塚権次郎物語仲代達矢「役者」を生きる
      ■「役者」として生きる無名塾31期生の4人

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