すべてのカネミ油症被害者救済へ㉘


 ~やはり福岡・博多から始まる~

 昨日博多に入り、医師の皆さんの組織の方とミーティングが始まった。57年前にカネミ倉庫製のダイオキシンが混入した毒の油を食べた人は、どれほどいたのだろうか?数万か?数十万か? 分からないが驚くべき数字であることに間違いない。

 国(厚生省・当時)と九州大学油症研究班(当時)が何らかの”結託”をして、食中毒の取り扱い”逸脱”して、独自の(勝手な)”診断基準”に基づいて、被害者を認定・未認定と分断した。カネミ油症の十数年前に熊本県水俣で発生した「水俣病」に倣い、”被害者を抑える工作”があったことは明らかだ。先日厚生労働省の担当者から届いた一通の文書。それは当時(1968年10月22日)厚生省の担当者から都道府県の生活衛生課の担当者に送られた手書きとガリ版刷りのチラシに明らかなのだ。

 朝日新聞福岡県大牟田支局の記者が「奇病発生!」と書いた1968年10月10日夕刊から2週間も経過していないことに驚く。カネミ油症を把握しながら、国と九州大学の医師たちは、以前から事態を把握し、協議を重ねていたことの“証左!”がここにある。

 福岡県北九州市小倉、カネミ倉庫製の油が原因で起こったカネミ油症事件。57年経過した今だからこそ、今から始まる“事件解明”の道はこれから開かれるのかもしれない。

    映画監督    稲塚秀孝

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