すべてのカネミ油症被害者救済へ(99)

 ~”反転攻勢”の展開へ~

 前回”政治家の矜持”について、この欄で伝えましたが、ほぼ”高市発言”(11月7日)から1か月が経過して、日中に軋轢状況の報道は毎日あり、多くの国民が”実害”を受けているにも関わらず、国会での議論は勝手ながら進む気配がない。

 勿論高市首相は、”自分の独断発言から、国民の皆さんにご迷惑をかけた”お詫びをしていない。何と”寛容な国民なのか?”と思わざるを得ない。今月中には、倒産する企業や商店が出てくることになるかも知れない。銀行が”緊急融資”をするかどうか?国による”隠れ支援”が行われるのか?興味深いところだ。
 
 SNS配信者も、心なしかおとなしくなった。目を見張るような提案も見受けられない。ただ、相手(中国が悪い)だけで、そもそも今回の事態を招いた自国を代表する政治家の分析と”結果責任”に触れることはないのは、異様といえる。

 ここ1週間で目立つのは、①11月7日発言に触れようとしていないこと。②経済対策等への対応に”チェンジ”していること、の2点である。しかしながら、目いっぱい、②に取り組んでいても、限界は見えて来る。やるだけやってもらって、経済状況も苦しくなるのを待って、”反転攻勢”を行う戦略と作戦を考えたいと思う。

 4日後(12月6日)、「母と子の絆~カネミ油症の真実」五島上映会を長崎県五島市福江で開催し、その場で新たに「五島からはじめよう」(仮題)のアピールを発表することを計画中です。その内容は、年内に全国会議員に配布できるよう準備したいと考えている。ぜひ皆さんの、更なるご支援、ご協力をいただきたいと思います。

                       カネミ油症被害者救済プロジェクト  稲塚秀孝

すべてのカネミ油症被害者救済へ(98)

 ~政治家の“矜持”とは何か?~

 かつて詩人、谷川雁氏は「原点は存在する」と表現し、恵庭事件の被告野崎健美氏は「原点から考える」と話してくださった。では政治家の”原点”は何か?それは国民の負託を受け、安心・安全を保つことに身を粉にして働くことではないかと考える。そこが政治家の原点”であり、政治家の”矜持”に違いない。

 ”存立危機事態”という、”妄想”、”空想”を持ち出した元首相の後継者を自認する現総理大臣の存在は、大きな混乱を生み出している。自らの発言によってこの国の経済を揺るがし、民間人を苦しめていることに対し、何の”謝罪”もないことに驚嘆する。

 まず、負託を受け、”結果責任”を問われる政治家として、日本で暮らすすべての人々に”謝罪”することが、”原点”だと思う。事件発生から57年が経過した「カネミ油症事件」は毒の油を摂取した親から生まれた子や孫に甚大な被害症状が出ていることに、救済に手を打たないばかりか放置し、責任を放棄している国に対して、何としても”鉄槌”を下さなければいけない。

 12月6日「カネミ油症事件」の原点となる長崎県五島市で行う「母と子の絆~カネミ油症の真実」の上映会。地元五島市の出口太市長も駆けつけてくださる中、その会場で公表するアピール「五島からはじめよう」の準備を進めています。ぜひ全国の皆さんに伝えられるように力を尽くしたい。

                  カネミ油症被害者救済プロジェクト 稲塚秀孝

すべてのカネミ油症被害者救済へ(97)

 ~”反転“の好機到来かも知れない~

 ”高市発言”の行方が混沌とし始めている。米中の代表者が”電話会談”したことが報じられたことが大きな”キッカケ”になりそうなのだ。11月7日以降、yahooにおける”SNS”の動向を苦々しく見ていたが、威勢のいい”勢い”がしぼみ始めている。当初は、「そんなに威勢が良ければ、今すぐ自衛隊に入隊し、”国防に従事”したらいいのに」と思ったものだが、一向にその動きは見られない。以前もこの欄で触れたのだが、”SNS”の無署名者は、実行力のない人たちなのだと思う。ここ数週間の動向を注視したいと思う。

 こうした”世間の流れ”を読み解くと、カネミ油症被害者救済にも当てはまるように思えてくる。「カネミ油症被害者救済プロジェクト」は、”流れ”を引き寄せ、掴み取らないといけない。

 12月6日五島上映会がとても”重要”で、近々公開するアピール「五島からはじめよう!」の呼びかけに注力しようと考えています。「母と子の絆~カネミ油症の真実」(2024)の取材で出会った故 岩村定子さんとの”約束”は、1973年に重篤な症状で生まれた長男 満広さんが”カネミ油症”であったことを明らかにすることなので、どうしても果たさなくてはいけない、と思っています。

                       カネミ油症被害者救済プロジェクト  稲塚秀孝

すべてのカネミ油症被害者救済へ(96)

 ~”五島”からはじめよう~

 昨日(11月23日)長崎県五島市の長崎新聞購読者の皆さんに「母と子の絆~カネミ油症の真実」五島上映会(12月6日)のチラシをお届けしました。そして長崎新聞本紙でも、案内をしていただきました。

 カネミ油は、1968年(昭和43年)当時、博多港から船で五島市に運ばれ、一斗缶が各地区(集落)の拠点宅に運ばれ、柄杓で配布されたと聞いています。そして同年10月に被害について新聞報道された後に、“毒の油”の回収は満足に行われなかった、と伺いました。その事実を聞いた時の“憤り”は言葉に尽くせませんでした。

 今回五島市、五島市教育委員会、カネミ油症被害者五島市の会、長崎新聞の後援をいただきました。まもなく五島市の小中学校、一部の高校にもチラシを届けたいと思います。
 ”カネミ油症は終わっていない”
 ”カネミ油症を知ってほしい”

 とりわけカネミ油症被害に苦しむ方々が多い五島の皆さんの”声”を全国に、世界に届けたいと思っています。”五島”からはじめよう・・・・

                      カネミ油症被害者救済プロジェクト   稲塚秀孝

すべてのカネミ油症被害者救済へ(95)

 ~いま、カネミ油症被害者を見棄てた国、その罪を問う~

 11月21日(金)19時、厚生労働省健康・生活局の担当者から、6回目の「回答」が届きました。いくつか注目すべき内容がありました。

①カネミ油症被害者認定の基となる”診断基準”は法的根拠がない、ということに対し、何も回答がなかったのです。これまでも、具体的な法律を示してほしい、と伝えていましたが、曖昧な回答に終始していました。ついに、認めたのだと判断しました。となると、この”半世紀”は何だったのか?と思います。厚労省と九州大学の”密室”で決められた”診断基準”が全く意味を持たないこと、新たに被害者救済に向けて、国会等で明らかにしてゆきたいと思います。

②カネミ油症被害者の医療費負担は2012年の法律により、原因企業のカネミ倉庫に託されていましたが、1968年の事件発生当時から、医療費の約7割が、国と地方自治体が肩代わりしていて、カネミ倉庫
未払い状態が続いています。今回の回答では、「被害者自己負担分(2~3割)分はカネミ倉庫が負担していると認識している」と、故 安倍政権から続く「ご飯論法」が登場しました。それ以外の医療費は国(情報開示請求に対し、不存在と回答)と自治体の負担については、回答していません。

 今後厚労省の「回答書」を精査しようと思います。そして近々、7回目の「要請書」を提出しなくてはなりません。準備を急ぎたいと思います。

                      カネミ油症被害者救済プロジェクト   稲塚秀孝

12月6日「2025年五島市上映会」の開催に向けて

 ドキュメンタリー映画『母と子の絆~カネミ油症の真実』製作委員会及びカネミ油症被害者救済プロジェクトでは、1968年10月10日に発生したカネミ油症事件から57年目を迎えた今年12月6日(土)、油症被害者が多く発生した五島市で『2025年五島市上映会』を開催します。

 この開催に向けてカネミ油症被害者救済プロジェクトでは五島市長、五島市教育長、カネミ油症被害者五島市の会及び長崎新聞社のご後援をいただいて開催することになりました。

 今月23日(日)には五島市における長崎新聞購読全世帯5940戸案内チラシを新聞折り込みするとともに、五島市教育委員会のご協力により、以下の小中学校の全校にチラシの配布をしていただけることになりました。五島市並びに五島市教育委員会には深く感謝申し上げます。

【配布部数】
小学校
五島市立福江小学校:390部
五島市立緑丘小学校:430部
五島市立奥浦小学校:40部
五島市立本山小学校:110部
五島市立久賀小学校:10部
五島市立富江小学校:100部
五島市立盈進小学校:50部
五島市立玉之浦小学校:30部
五島市立三井楽小学校:80部
五島市立岐宿小学校:110部
五島市立奈留小学校:30部


中学校
五島市立福江中学校:500部
五島市立翁頭中学校:80部
五島市立久賀中学校:10部
五島市立富江中学校:90部
五島市立玉之浦中学校:30部
五島市立三井楽中学校:50部
五島市立嵯峨島中学校:5部
五島市立岐宿中学校:70部

すべてのカネミ油症被害者救済へ(94)

 ~虎の尾を踏む~

 11月7日の高市首相の発言から、瞬く間に中国と日本との”緊張関係”が高まっています。まさに“虎の尾を踏む”行為は、危険なものだと言うしかありません。

 11月23日(日)東京・文京区民センターで「母と子の絆~カネミ油症の真実」の上映会があり、昨日私が関わっている2つの情報ネットワークに発信しました。この映画の内容が「不適切な映像使用」と厚生労働省及び九州大学油症治療研究班から名指しされていることを示しました。

 10月20日、厚労省の健康・生活局の担当者に対し、6回目の「要請書」を送り、その中で「不適切な映像使用」とは何を指しているのか?6月14日の「三者協議」後の記者会見の撮影・録音を禁止したことへの抗議と映画製作委員会への謝罪を求めています。回答期限の11月14日夕刻、厚労省から、「来週中(11月21日)に回答する」旨、連絡が来ましたので、11月23日上映会後に”回答内容”を来場者にお伝えしようと考えています。私は、厚労省が「不適切な映像使用」として、記者会見の撮影・録音を禁止したことは、まさに”虎の尾を踏む”行為だったと思います。
次回の「三者協議」は来年1月24日ですので、年内に決着をつけたいと考えています。

                      カネミ油症被害者救済プロジェクト   稲塚秀孝

俳優 仲代達矢さん追悼(下)

  プロは死ぬまでプロ
 
 無名塾は1975年に設立されましたので、今年50年目を迎えました。仲代達矢さんと妻 恭子(劇作家・演出家)が、若い俳優を育てる目的で始め、現在までに250名越える塾員を世に送り出してきました。
 1995年に作られた仲代劇堂(稽古場)の一角に「無名塾修業覚書」が張り出されています。生前恭子さんが書いた筆文字です。

一、 無名塾は高度の目標をかかげたプロフェッショナルな俳優達の生涯修業を目的とした修練の場で
  ある事を第一義おする
二、 無名塾の生涯修業は、三年を養成期、それ以後を修業期とする
と位置づけています。
 仲代さんは日頃塾員に「生涯修業」つまり、「プロは死ぬまでプロ」という教えを授けてきたのです。また「無名塾」の名には、俳優を続けていても、いつでも無名になって、戻って来られる“場所”という意味が込められていたのです。

 2022年「役者として生きる~無名塾第31期生の4人」が完成し、全国上映されました。無名塾で3年間修業を重ねる4人の若者たちはコロナ禍と重なり、仲代さん数少ない指導を受けられませんでしたし、修業を覆えた「卒塾式」が開かれませんでした。

 しかし4人揃っての舞台「左の腕」(2021)では、新たな塾員として挨拶ができました。それから4年、誰一人欠けることなく、この夏の「肝っ玉おっ母と子供たち」の舞台に立ち、役者として仲代さんの背中を追う”決意“を固めています。

 「影武者」(1980年)では、苫東地区と厚真町がロケ地となり、「春との旅」(2010年)は、苫小牧市内で撮影が行われました。今年6月「苫東映画祭」の際、仲代さんは「肝っ玉おっ母と子供たち」能登公演を終えたばかりで、来苫は実現しませんでしたが、後日メッセージをいただきました。
「『春との旅』を全国から集まった皆さんに観ていただけて良かった。私も『苫東映画祭』に参加したかった」と。それを聞いて私は、来年6月半ばに「苫東映画祭2026」を開催し、ゲストに仲代さんを迎え、「人間の條件」や「切腹」を上映しようと準備をし始めました。10月下旬、亡くなる10日前には、「来年の『苫東映画祭』を楽しみにしている」と連絡があったばかりでした。ですから突然訃報の連絡が届いた時に私は、前後のことを考えるでもなく、仲代達矢さん追悼の意志を高く掲げて、実現させたいと考えているところです。

 思えばドラマ「光は東方より~野口英世伝」(1976年)でご一緒して以来、来年は50年目の節目を迎えます。仲代さんは次回公演として「どん底」(ゴーリキー作)の自主稽古を始めていたと聞きました。「プロは死ぬまでプロ」「生涯修業」を胸に、旅だったのだと思います。
                                     映画監督  稲塚秀孝

俳優 仲代達矢さん追悼(中)

 仲代さんとの仕事
 引き続き亡くなった俳優 仲代達矢さんへの追悼文を続けます。

 仲代達矢さんと私の年の差は17。親子とも兄弟とも異なる年の差でしたが、仲代さんはいつも私を”さんづけ“で呼んでくださり、その温かいお人柄と優しさを感じてきました。

 2008年「人生の歩き方」(NHK教育・全8回放送)を取材・放送しました。昭和7年(1932年)12月13日生まれ。東京のど真ん中・青南小学校に通学、同級生には、終戦時に自害した阿南惟幾陸軍大臣の子弟がいたと聞きました。戦時下には郊外のお寺に”集団疎開“した体験を語ってくれました。その時、「仲代さんの根っこには、戦争体験があるのだ」と感じました。そして無名塾の塾生に、“戦争体験を通して得た、平和を希求する思い」を舞台に一緒に立つことで、長年伝えて来られたのだと考えています。

 二重被爆者の山口彊(つとむ)さんのことをお話ししたのは、その頃だったと思います。仲代さんは「一度山口さんと会ってみたい」と思われたのですが、山口さんは2010年1月に93歳で亡くなり、対面は叶いませんでした。残念なことです。
 その年8月「二重被爆 ヒロシマ ナガサキを生き抜いた記録」(NHK・90分)では、仲代さんに語りをお願いしました。二度の被爆した体験を90歳から世界へ向けて語りはじめ「人間の世界”核“にいらない」と強く訴えた山口さんと”共有”できる思いがあったのではないかと感じました。

フクシマ2011~被曝に晒された人々の記録」(2012年)
書くことの重さ~作家佐藤泰志」(2013年)でも語りをお願いしました。

 そして劇映画「NORIN TEN~稲塚権次郎物語」への出演依頼のために、東京・世田谷の無名塾を訪ねたのは、2013年冬でした。小麦農林10号の育種(昭和10年)に心血を注いだ稲塚権次郎さんは、私の祖父のいとこにあたります。
 地元富山の城端町(現在南砺市)の農家の長男に生まれ、寒冷地でも収量が多い品種を作り、農家を豊かにしたいと考えて、育種家を目指した権次郎さんを仲代さんは飄々と演じてくれました。地元の皆さんの協力で行われた撮影の最後は“野焼き”のシーンでした。小高い丘の平地に木のやぐらを組み、ご遺体が入った箱に火を放ち、埋葬する風習は、半世紀前まで実際に行われていました。亡き妻の骨を拾う場面で、大量の煙を吸ってしまった仲代さんは、その夜体調不良になりました。
 元々喘息の持病があったにもかかわらず、撮影現場での配慮が足りなかったのです。撮影を中断して、帰京する手筈を取りましたが、地元の医師の治療を受けて、数日で回復することができました。今となっては、大事に至らずによかったと、思っています。

 そして劇映画「NORIN TEN~稲塚権次郎物語」への出演依頼のために、東京・世田谷の無名塾を訪ねたのは、2013年冬でした。小麦農林10号の育種(昭和10年)に心血を注いだ稲塚権次郎さんは、私の祖父のいとこにあたります。
 地元富山の城端町(現在南砺市)の農家の長男に生まれ、寒冷地でも収量が多い品種を作り、農家を豊かにしたいと考えて、育種家を目指した権次郎さんを仲代さんは飄々と演じてくれました。地元の皆さんの協力で行われた撮影の最後は“野焼き”のシーンでした。小高い丘の平地に木のやぐらを組み、ご遺体が入った箱に火を放ち、埋葬する風習は、半世紀前まで実際に行われていました。亡き妻の骨を拾う場面で、大量の煙を吸ってしまった仲代さんは、その夜体調不良になりました。
 元々喘息の持病があったにもかかわらず、撮影現場での配慮が足りなかったのです。撮影を中断して、帰京する手筈を取りましたが、地元の医師の治療を受けて、数日で回復することができました。今となっては、大事に至らずによかったと、思っています。
 
 「仲代達矢”役者”を生きる」(2015年)は、イヨネスコ作「授業」を稽古から能登と無名塾で行われた公演までを追った作品でした。膨大なセリフを筆写し、寝室の壁に張り巡らすところから映画は始まります。数か月かけて、セリフを覚えることと苦闘する姿を撮影しながら、仲代さんが口癖にしていた「役者は生涯修業」という言葉が浮かび上がってきました。その時、仲代さんは80歳を越えていたのです。

                                     映画監督  稲塚秀孝